ヒッチハイクをしたことがありますか。
旅とヒッチハイク、この二つは昔からとても親密な間柄にあったと思います。
はるか広がる小麦畑や草原、あるいは荒野。そこをゆく旅人が、気の良い御者に頼んで荷台に乗せてもらい、寝っ転がってがたごとと揺れる道をすすむ。そんなさまが何とはなしに浮かんできます。
牧歌的な時代から、自由気ままに放浪することと、先々で見知らぬ人の好意をうけて自分の足とは異なる視点で旅路を行くことは、ほとんど同じ文脈の中で語られてきました。
バックパッカーなら一度はやったことがあるはず?
けれど、もうずいぶん前からヒッチハイクは、旅人と運転手の双方にとって、必ずしも安全なものでないらしい、と考えられるようになりました。交通機関が整備されたことや、ネットで簡単に情報収集ができるようになったことで、わざわざ不確実な手段を選ぶ必要がなくなったのも大きな理由だと思います。
旅行好きだと言っても、とくに女性の場合には、縁遠くなって久しい旅の醍醐味。それがヒッチハイク。
かくいう私も、やろうと思ったこともなければ、やるかもしれないとすら思っていませんでした。
元来、石橋は叩いて叩いて叩いた上に一気に渡る派な私が、やる予定のなかったヒッチハイクをするはめになったのは、ほとんどが意地のため。人間、開き直ると肝も据わるし無謀にもなります。
その時、私たちはヨルダンを旅していました。
ヨルダンは、イラク、シリア、サウジにイスラエルといった、紛争やきな臭い話題の絶えない国々に囲まれています。国民の半数はパレスチナからの移民であると言われ、近年ではイラクやシリアの難民も多く流入しているとか。
そんななか、中東の国々とも西側諸国とも良好な関係を保ち、治安も良く、遺跡や自然保護区、砂漠に死海といった観光資源にも恵まれている国だとされています。
確かに治安は悪くありませんでした。
首都アンマンから、世界一入場料の高い世界遺産として有名なペトラ遺跡、迫力あるダーナ自然保護区を回って、死海にも宿を取りましたが、その景色は素晴らしいものでした。
しかし、いかんせん観光客の乗れるような公共の交通機関がほとんどないので、個人旅行者にとっては難儀する国です。
実は地元民が利用するバスもあるのですが、基本的にはタクシーかセルビスという乗り合いの車、あるいはドライバーを雇って移動します。街中ならUberが見つかることもありますが、そもそもアンマン以外ではあまり走っていませんでした。
観光客相手の乗り物に、定額なんてあってないようなもの。タクシーだろうが何だろうが、乗る前にまず交渉しなければなりません。
まぁ、ほぼ全ての運転手がふっかけてきます。
慣れてくると、だいたい2~3倍の値段から提示してくると気がつきますが、初めのうちは相場もわかりませんし、言われるがままに払ってしまう人も多いのでしょう。
乗っている途中や降りる段になって額をつり上げてくるようなのもいます。毅然と抗議をし、降りてから当初の値段だけ渡せば、たいていの場合はそのまま引き下がります。しかし、経験がなければ戸惑うし、恐怖もあって素直に渡してしまうこともあるかもしれません。だから味をしめているのか、とにかく取れるだけ取ってやろう、というのが彼らの姿勢です。
この「とりあえずぼったくろう精神」は、なにも乗り物の運転手だけではなく、ヨルダンで観光業に携わる多くの人々に共通していたように思います。
ある程度英語が話せるだけで、観光客相手に実入りの良い仕事ができる。まさしく「語学を武器に」稼いでいるのです。しかし残念なことに、彼らがフェアだとは限りません。
これはどの国へ行っても同じですが、外国語なんて全く話せないけれど地道に働いているその辺の人のほうが、案外信用できたりするものです。
押し売りのようにどこまでもついてくる「自称」ガイドに、馬の餌代を要求するベドウィン。国が管理する遺跡の真ん中で、その辺にあるいくらか〝まし〟な石ころを並べて売っている、小さな小さな男の子。
行く先々の観光地で働く人の態度や稼ぎ方は、ある意味ではたくましく、しかしやられる方としては切なくもあり、うんざりさせられるものでした。
これを楽しみ、喜捨のつもりで少しくらい多く払うのもいとわないような大らかさでいれば、あるいは良いのかもしれません。毎回期待しては落胆し、そして生真面目に適正価格を求めて交渉し続けていた我々は、死海の宿にたどり着いた時点で、いささかならず辟易としていたのでした。
死海で宿泊したのは、リゾート地であるその一帯においては唯一の公営宿で、部屋は皆独立したシャレーになっており、すぐ目の前に死海を臨むことができました。
人もほとんどおらず、言うまでもなく抜群の環境。だったはずが、気だるげで客商売とは思えぬほど不遜なマネージャーから始まって、異常なほど群がってくるハエ、食べ物を狙ってシャレーの窓という窓に体当たりする猫など、なかなかに、不快な記憶の残る滞在でした。
極めつけが、宿を立つときの車の手配交渉。
日本のはえ取り紙があれば間違いなく大活躍しそうな食堂の一角にあった受付で精算を済ませ、「ここからアンマンまで車を頼みたい」というと、マネージャーは案の定、想定の2倍近い金額を提示してきました。
体格が良くタトゥーの5~6個は入っていそうな男は、その立地から努力もせずに利益を享受しておきながら、強面で客を威嚇するような雰囲気を持っていました。この宿一帯には死海と道路と岩しかなく、当然、歩ける範囲にレストランや小さな売店などもありません。従ってどんなに不味くとも、高いお金を払ってハエの行き交う食堂で食事をとることになるのですが、私たちはこれを見越して食料を調達してからやってきて、余分な料金を払うこともなくシャレーですごしました。マネージャーの男からすればそんなことも気に入らなかったのでしょう。
普通、正常な値段なら全く下がらないか、ふっかけてくれば交渉しながら徐々に下げていくもの。しかし、最初にほんのちょっと、5JODほど下げた後、いくら言ってもそれ以上下げようとはしません。そのうちにはやばやとドライバーを呼んでしまい、ひょろりとしたその男が勝手に私たちの荷物に触り始めたではないですか。
「アンマンまで行ってくれなくても良い。途中のここで降ろしてくれたら、バスに乗るから」
イライラしながら、ガイドブックを見せてあれこれと説明するも、返ってくるのはバカにしたようなニヤニヤ笑い。
これが他の観光地なら、外にはたくさんの車やタクシーが待機していて、値段に折り合いがつかなければ他へ声をかければ良いのですが、この場所は全くの孤立無援。完全にこちらの足下を見ているのでした。
払えない額ではないが、こいつの言うなりにはしたくない。
でも、それ以外に方法はありません。Uberも走っていないのはとっくに確認済みです。
どうしようもないのか。でも嫌だ。
普段なら、もっと論理的で効率的な考え方ができたかもしれません。すなわち、他に手段がない以上、割り切って金を払い、後はすっぱり忘れて残りの旅程を楽しむ、といったような。しかし、この時はたまっていたフラストレーションも相まって、どうしても煮え切りません。どころか、この不誠実そうな男への嫌悪感から、なんとなく無謀な方へと感情が動き始めてさえいました。
そして、食堂の椅子にだらしなく腰掛けた男が最後に言った言葉が、この後の私たちの行動を決めました。
「これ以上はどうやったってまけられないね。嫌だったらヒッチハイクでもすればいい。何時間もかかるだろうが、いつかは誰か乗っけてくれるかもな」
カチーン、あるいはカーン、という鐘の音が聞こえたようでした。
「そうするわ!」
こうして私たちは、宿の男にへらへらとお追従していた若いドライバーからひったくるような気持ちで荷物を取り戻すと、意気揚々とヒッチハイクに乗り出したのでした。
私は、「誰も止まってくれなかったら、バス停まで歩いて行ったって良い」と思っていました。
良く晴れた日のちょうどお昼頃で、ヨルダンの2月の風は心地よく、長袖でも涼しいくらいの気温でした。晴天の昼間であったから、思い切って道に出ようという気持ちにもなれたのだと思います。
実にすがすがしい気分でした。
退路を断った分、やることにも気合いが入ります。天気がその後押しをしてくれているようでした。
日が暮れるまでには、何とかなるだろう。
二人ともそう思っていました。
ところが、わたしたちの決意は良い意味で裏切られることになりました。なんと、勢いよく合図した1発目で、車が止まってくれたのです。
ぼろぼろの小豆色の車に乗っていたのは、制服を着た軍人のような青年。この制服にも何となく安心感を抱き、「アンマンまで行きたいんだけど。途中の○○というバス停で降ろしてくれても良いから、お願い!」というと、ちょっと迷った後、「わかったよ」と苦笑い。「ちょっと待って」と言って、幼い子供向けの衣服やらぬいぐるみやらが山のようになった後部座席をかき分けて一人分のスペースを作り、重たいコロコロを山の上に引きずりあげてくれました。
友人はバックパックを持って助手席に座り、私たちは思わぬ滑り出しに興奮しながら、死海を後にしたのでした。
推定軍人の彼はあまり英語が得意ではなく、所属を聞いても具体的に答えられないようでしたが、国の関係者であるのは間違いないらしく、途中の検問も顔パスならぬ制服パスで「ノープログレムさ」と、すんなり通してもらっていました。
結構なスピードで駆け抜ける車に乗りながら、これは歩いていたら日が暮れるどころではなかったなと、二人してこわばった顔を見合わせました。しかも、私たちの目指していたバス停は、青年曰く「今は使われていない」らしく、平原の真ん中で、目印すらなかったのです。もしこんなところで降ろされていたら、再びヒッチハイクをするか、暗闇の中をさまよった挙句に震えながら野宿、なんていう事態になっていたかもしれません。
青年は何もない道に唖然とする私たちをみて、「ここじゃアンマンまで戻れないだろ。ちゃんとしたバスステーションまで連れて行ってあげるから」と言って、再び車を走らせました。
死海沿いの長い道を走りきり、砂利と畑の平坦な道を抜ければ、思いがけず緑の美しい山間を行くことになりました。一帯はサルト(ラテン語で森林を意味するサルトゥスに由来)という名前の街だということでした。
自分はアカバ勤務だがサルトの出身で、休暇で一時帰郷する途中なんだ。
運転手の彼はそう話しながら、サルトのバスターミナルまで送ってくれ、結局1JODも要求せずに去っていきました。
「アンマン行きのバスに乗ったら、ホテルの名前を言うんだよ。近くになったら降ろしてくれるから」
というアドバイスだけ残して。
私たちはただ「ありがとう」と言っただけで、気が付けば彼の連絡先すら聞いてはいませんでした。
実はサルトはアンマンの隣。 アンマンからイスラエルへ行く道のちょうど中ほどに位置する街でした。 思いがけず目的地の近くまで送ってもらったことになります。
後から聞いた話では、死海の辺りではやはり交通機関がないために、今でも割とヒッチハイクをする人がいるのだとか。しかし、好意だと思って乗っても、後からお金を請求されたり、あるいは初めからお金を払うなら乗せる、というドライバーも多いということでした。
正真正銘のラッキーだったわけですが、この本物の好意を実感できたのは、小豆色のボロ車がさわやかに去っていった後のこと。疑心暗鬼になりかけていたせいで、乗せてくれたことに感謝しながら、最後までどこかかまえていて、青年が名乗りもせず、まして金銭のきの時もにおわせずに去っていって初めて、
「あぁ、彼は本当に良い人だったんだ」
と、少しの後ろめたさと共に認めることができたのでした。
いろいろあったけれど、ヨルダンの旅を思い出すときには、赤茶色の岩に囲まれた景色とともに、ラテン語で森林、英語では塩(Salt)の名のついた街の風景が浮かんできます。
あの青年が「美しいところだろう?」と、車を止めて誇らしげに見せてくれた、緑の丘の先、白や黄色の野花の向こうの街。
「この恩は、日本へ来る外国人に返そう」
そんな決意とともに思い出される景色です。
異国の青空のもと、売られた喧嘩を買うように挑戦した初めてのヒッチハイクは、思いがけず素敵な出会いをもたらしてくれたのでした。
とはいえ、すれた猜疑心から連絡先もゲットできなかった、出会いを求める女二人。青年のチャーミングな笑顔を思い出すたび、逃した魚は大きかったか…?という気がしないでもありません。
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