不思議なもので、旅の思い出はその楽しさや美しさに比例するものではないらしい。
ことに不自由な旅というのは、よくよく記憶に刻み込まれるらしく、快適な生活に戻って振り返るのが楽しかったりする。
エジプト旅もその一つだ。
7:30のバスに乗って、エルサレムから国境の街エイラートへ。
前日まで、エジプトへの入国方法を迷っていた。旅行の日程はもうそれほど残っていなかった。数日後にはカイロから日本への帰国便に乗らなければならない。おのずと、どこへどうやって入るかで、訪れる場所、見られるものも限られてくる。
アブシンベルやルクソールにも行きたいが、どうしても一度カイロを経由する必要がある。時間がないのにエジプト国内を往復するのは効率が悪いように思えたし、何よりイスラエルからエジプトへの航空券がべらぼうに高かった。日本からの周遊航空券とそれほど変わらない値段だった。
多少無理をして、時間をぎりぎりまで使えば、行ったり来たりして方々回ることも不可能ではなかったけれど、懸念があった。これまでの旅程でアラブ人のいい加減さを見てきたこともあり、とても予定通りにことが進むとは思えなかったのだ。私は以前のトルコ旅行によりワンクッション置いていたので、初めからあまり動けるとは思っていなかった。日本出発前は古代オリエントに夢をはせていた同伴者はというと、いまや不信感に苛まれてかわいそうなほどであった。
結局、陸路で国境を越え、そこから夜行の長距離バスでカイロまで向かうことにした。経由する海沿いの町ダハブにも一泊し、せっかくなので紅海を楽しんでから、ギザのピラミッドを見て帰ろう。上エジプトへの訪問は次回まで持ちこしとなった。
エルサレムのバスターミナルでは、またしても日本人カップルと再会した。バックパッカーである彼らにとって、空路という選択肢は、はなからないようだった。
エイラートへ着いた。4時間ほどきた道のりの終着点から、またすぐ横のバスに乗り換えて、境界付近へ向かう。街の大きさからして、直線で行けば近いのかもしれないが、満杯状態のバスは市内の大型ホテルやビーチをグルグル回る。リゾート客を乗せたり降ろしたりするうち、やがて真っ青な紅海が顔を見せ、30分以上かかってようやく目的地へ着いた。
バスにあれだけ乗っていたのに、気が付くと、ボーダーにはイタリア人3名のグループと日本人4人だけが取り残されていた。
ほとんど人気のない税関で、一人102シュケルの出国税と4人で一組分の手数料を支払い、私たちはイスラエルを後にした。出入りするのに、とりわけ空港で出国する際には時間がかかることで有名な国だが、陸路での越境は拍子抜けするほどあっけなかった。手荷物検査すらない。出口で一言、「武器を持っているか」と聞かれただけだった。
小さな免税店を抜け、良く晴れて明るい道を少し行くと、エジプト入国のための手荷物検査所があった。X線の検査機もあり、今度は結構な厳重さで、スニーカーまで脱がされた。その後も女性3名はすんなりと通されたが、黒一点のR君だけがひっかかり、服を脱ぎ、バックパックの中身まで全て出すように言われていた。
どうも、エジプトは意外に規制が厳しいらしく、ここで荷物からドローンでも出ようものなら、持っているだけで捕まるのだという。
4人いた検査員のうち一人は私たちと雑談し、他もちょくちょく軽口で参加するのだけれど、R君が緊張をほぐそうと何か言っても一切相手にしない。エジプト人は、わかりやすく女性に優しく男に厳しかった。
すっかり薄着になって解放されたR君を待って検査所を出ると、すぐ先にパスポートコントロールが見えた。ここで事前に申請してあったe-VISAを見せて入国となる。
エジプトに飛行機で入国する場合には空港でアライバルVISAが取れるので、その場でお金を払うだけだ。でも陸から越境するなら、VISAがなければエイラットのエジプト領事館で発給してもらう必要があり、時間が読めないうえに、料金も高い。へたをすると、ただえさえ物価の高いイスラエルのリゾート地で何日も足止めという憂き目にあう。不要なトラブルを避けるためにも、e-VISA利用が便利で安心できた。
実は、e-VISAを印刷していた紙を誤ってエルサレムで捨ててしまっていた。出国直前に気が付いたので、どこかで再印刷ということもできなかった。スマートフォンにはデータが入っていたので、紙でないといけないとはどこにも書いていないし、最悪多少の袖の下でなんとかなるだろうと思ってイミグレーションまでやってきた。ところが、これが全くの杞憂で、スマホの画面を見せるだけであっさりと通ることができた。画面にちょっとした亀裂のある年季の入ったスマホを「ちょうだい」というおちゃめなジョーク付だった。
ちなみに、もしシャルム・エル・シェイクやダハブなど、シナイ半島のみに滞在するのであれば、エジプトのVISAはいらない。確か2週間くらいは大丈夫だったと思う。ただ、カイロなど他の都市へ移動したりそこから出国するためにはやはりVISAが必要。かえって、何も知らない人がシナイからするっと入国できてしまうと、後々移動しようと言うときになって問題が発生する。そうなったら、また国境まで戻ってVISAを取得しなければならないのだ。
さて、幸先よく入国すると、そこはもうエジプト側の町、ターバ。
国境を超えただけなのに、 何故かハエが群がってくる。行く先のほうに裸のラクダが何頭も見えた。あれは飼われているのだろうか。それにしてはロープすら付けていないし、周りに誰もいない。エジプトには野良ラクダがいるのか?
1㎞ほど先のバスステーションまで、荷物を持ってテクテクと行く。待ち構えていた客引きに捕まってタクシーに乗る人もいたが、距離は短く、まっすぐなので迷うことはない。3月は歩くのに気温もちょうど良かった。それに急いでも、早く出発できるわけじゃない。乗りあっても高いタクシーを使うのでない限り、みんな1日1本、15:00のバスを待つのだ。
ちなみに、途中のホテルにあるATMでエジプシャンポンドを下さないと、バス停付近には見当たらなかった。カードなどは当然のように使えない。
余談だが、エジプトではクレジットカードがほとんど役に立たない。カイロの考古学博物館やギザのピラミッドの入場料といった、世界中から人の集まる場所ですら、現金払いのみ。さらに宿泊施設によっては エジプシャンポンド(EGP)ではなくドルでの支払いを求められる。一時ほどではないとはいえ、政情の不安定さをうかがわせた。
私たちは時折ハエを払いながら、バスを待った。時刻は昼過ぎで、「エジプトへ入ったら何か食べよう」と言っていたのに、バスステーション周辺ではありつけそうになかった。店は並んでいるのだけれど、あまりに閑散としていてまともな食事が出てきそうになかったし、売店のスナックに至るまでやたらと高かった。
パラパラとバスを待つ人々が集まってくるが、みんな屋根のあるチケット売り場の前あたりに座り込んだり、どこからともなくすり寄ってくる猫の相手をしたり、とめどなくお喋りしながら待っていた。
やがて、大型のバスがやってきた。古いがよく冷房の効いたバスだった。出発するとすぐに、ジーンズに黒い革ジャンの男が乗り込んできて、入国税を徴収し始めた。料金は一人400EGP(2019年でおよそ2600円)。少し前に120EGPから一気に値上がりしたらしい。VISA代の25ドルも合わせれば、エジプトに入国するだけで6000円ほどかかることになる。物価を考えれば異常に高い。
アラブの春からこっち、エジプトは治安悪化の影響で稼ぎ頭であった観光業が悪化している。そのため減少した観光客から少しでも利益を得ようと、観光税や施設の入場料をのきなみ値上げしているようだ。この国の生活水準からしたらとてつもない収入源だが、少なくとも、一般市民が恩恵にあずかることはないように見えた。この後、大都市であるカイロに近づくほど、観光客に群がる荒んだ貧しさを目にすることになったから。
外国人からおろしたてのEGPを巻き上げると、とても公務員には見えない皮ジャンの男は引き揚げ、バスは走り始めた。
左手に美しい紅海を臨み、右手には岩山や荒野が広がる。ヨルダンの死海辺りとも似た地形だが、こちらの方が断然明るく、日差しも強かった。海は死海には無い生命力が宿っているのを感じさせた。
国境のターバから、カイロ行きバスの出るダハブまでは、グーグルマップによると2時間弱。しかし、バスの行程表では約2時間半となっていた。この差はなんだろうと思っていたら、途中でバスのドライバーが運転席の窓を開け、チャイをもらって休憩したり、海沿いを離れてからはがれき岩の山間をのんびりのんびり走っていた。働き方改革なんて言葉、彼らにはそもそも無縁のようだった。追い越したり追い越されたりもほとんどない。時折、ラクダに乗った現地人とすれ違うくらいだ。
そうしてゆっくり走っても、まだ日のあるうちにダハブへ着くことができた。バスターミナルには客引きのドライバーが待ち構えていて、交渉して市街地や宿まで連れて行ってもらう。
ヨルダン出国からたびたび縁のあった日本人カップルとも、ここで本当にお別れだった。二人はしばらくダハブに滞在してから、アフリカ諸国をまわる予定だという。
「お元気で」
「気を付けて」
お互い、叫ぶようにそれだけ言うと、それぞれのドライバーに引っ張られるように、あっという間に遠ざかった。そのまま車の荷台に荷物を放り、ほとんどエンジンブレーキに足がふれるようにして、助手席に二人で座らされた。
また会えたらきっと楽しいけれど、もう会わないかもしれない。旅の出会いは、たいてい一期一会だ。
車は一気に加速して、バス停から一直線の道を走りきり、ほどなく、車道に面した宿の裏口についた。陽気な若い運転手に30EGP(200円しないくらい)を払うと、私たちはダハブの宿の前に立った。扉は真っ青に塗られていた。
“恋するダハブ”
紅海に面した小さな村。美しい海に安い物価。そのあまりの居心地の良さに、バックパッカーの「天国」あるいは「沈没地」として有名なところだ。
ずぶずぶと沈没しながら、旅人はここで出会い、恋に落ちると言う。
期待するまでもなく、明日には出発しなければならない経由地としてではあるが、とにもかくにも、私たちは旅人のパラダイスに到着したのだった。
後編へ
コメント
こんにちは!わかりやすい記事をありがとうございます!現在エルサレム滞在中で、数日以内にダハブへ移動予定です。eビザを申請予定なのですが、ターバ国境で「シナイ半島のみ」としてビザなし(2週間)でエジプト入国後に、eビザを申請してカイロ方面へ行くことは可能かご存知ですか?
また、eビザで入国した場合、パスポートに何かしらの紙(通常のアライバルビザのようなもの)は貼られるのでしょうか?もしもパスポートに何の形跡も残らないのであれば、上記は全く問題がないかと思い、お伺いしました。宜しくお願いします!
こんにちは。返信が遅くなって申し訳ありません。すでにエルサレムを発たれ不要な情報かと思いつつ。私の場合は、ターバでスマホの画面を見せてパスポートを渡したところ、一応スタンプは押されました。が、これはシナイ半島への入国スタンプだと思われます。そして、今改めて確かめてみたところ、この入国スタンプの横に小さーく「visa E」とボールペンで書いてありました。しかし、これが入国の時に書かれたものなのかはちょっとわかりません。そもそも、こんなの誰でもどこでもかけますし。バスの車内ではパスポートを出しましたが、VISAを見せろとは言われませんでした…謎な国です。従って、もしダハブ滞在中にe-VISAを取ることができるなら、それでカイロへ行くことは可能なように思います。正直、何かあってもお金を渡せばなんとかなるような気も…。今の不安定なエジプトで絶対に確かとは言えませんが。無事エジプトを楽しめますように。