今年(2019)は曇天でじめじめが続いていますね。昨年とうってかわって、いつ夏が始まるのかという感じです。
雨の旅、といって思い出すのは、イスラエルです。
本来はあまり雨の降らない国で、特に夏など水不足が深刻なほど全く降らないこともあるくらいだそうですが、私と友人が訪れた時には毎日ほぼ雨。ちょうど2月の終わり頃だったので、雨季が明ける前、最後の雨だったのかもしれません。
岩っぽい地質が水を吸わないせいか、もともと雨対策の整備がされていないせいか、少しでも降ると川のように水が流れて、足元はびちゃびちゃ。外から戻るたび、宿の電気ストーブに濡れて重くなったスニーカーを立て掛けて、寒さに震えていたのが思い出されます。暖を取ろうと口にしたワインの香りと渋み、そしてかじったチーズの爽やかで濃い味わいも。
以前から、イスラエルには一度行ってみたいと思っていました。
同じ神を信仰しながら相容れぬ三つの世界宗教の聖地を有し、イギリスをはじめとした諸外国にかき回された歴史をもち、今もなおパレスチナ問題で悪名高い国。排斥され故郷を持てずに世界中に散らばった民が、今や実質的な支配者となった国。そんな国で、実際に人々はどのように生活しているのか。もっといえば、どのように関わりあって生きているのか。殺し合いという手段以外で。
それに旅好きな人と話していると、「イスラエルが一番よかった」という人が時折いるのです。曰く、人が親切だとか、食べ物が安くて美味しいだとか。
とはいえ、まだまだ旅先にイスラエルを選ぶという人は少ないでしょう。生物は知らない物には自然と恐れを抱くもの。日本人は自分が宗教に無知であると無意識のうちに自覚しているようで、また「宗教」自体に恐怖を抱いているようなところもあり、単に楽しむための旅先にはこんな“おっかない”国を選ばなくても良いと考える人が多いようです。
私にとってもイスラエルは、単純に観光を楽しむために行きたい国というわけではありませんでした。きっと、もう少し歳をとってからでは行くのが億劫になってしまうような、そんな気のする場所の一つでした。それは、たとえば映画で重いテーマの名作は若い頃にこそ見ておきたいと思うのと同じように、一度は見ておきたいけれど、パワーがないと立ち向かえない、というような。
早朝6:30のバスに乗って、私たちはヨルダンからイスラエルへ陸路入国することにしました。
アンマンのバスオフィスにはまだ薄暗いうちからバックパックを背負った人々が集まってきていて、シャッターが開くと同時に中へなだれ込みました。待つうちに、バックパックで旅している日本人カップルと春休みを利用してやってきたという19歳の学生に出会いました。旅行者としてマイノリティな土地へやっくる日本人同士、話してみるとなかなか楽しいものです。やがて時間になると、おじさんがオフィスのドアから中へ上半身だけ出して、
「キングフセイン橋!6:30!」
と叫んですぐに戻っていきます。乗客はそれを聞いて腰を上げ、曇天から降りそそぐ雨に濡れながら、皆なんとなくのろのろとバスに乗り込んだのでした。
バスが発車すると雨足はさらに強まり、霧と水しぶきでフロントガラスからはほとんど何も見えなくなりました。さらに車内が暖かいのでガラスはよくくもり、助手席に座るスタッフがちょこちょこ立ち上がっては熱心に拭いていました。彼の役割はほとんどそれだけのようでした。運転手は慣れた道なのか、濃霧の中を危なげなく走らせ続け、国境付近に着く頃には薄いもや程度になっていました。
キングフセイン橋のイミグレーションは小さな小屋のような所で、この日はフィリピンや中国からと思しき団体客も多く、混雑していました。出国のためには、ここで出国税を支払ってからパスポートを預け、バスに戻った後に回収されたパスポートと出国カード、そして出国税支払を証明する半券を受取る必要があります。バスは乗り換えるので荷物も持って行かなくてはなりません。しかし小屋の中には不案内で、流れを作るようなルートもないので、入ってから皆が右往左往していて非常に時間がかかりました。
そのうちに、アンマンからのバスの乗客ばかりでなく、個人で出国場所までやってきた人々も乗り込んできて、あっという間にいっぱいになってしまいました。結局、座席に座りきれなかった人々は降ろされて、別の車両に載せられることになったようでした。オフィスで出会った日本人の彼らとはここで別れてしまいました。乗客が揃うとイミグレの職員がやってきてパスポートが返却されるのですが、いちいち国名と名前を読み上げて挙手するという非効率極まりない形式で、これまた大変時間がかかったのでした。
バスでほんの少しの距離を移動する間に越境し、今度はイスラエル側のイミグレーションで入国。荷物のチェックがあり、パスポートで人物(国?)の確認、最後に入国審査でいくつか質問がありました。「どこへ行くのか、何日間か、個人かツアーか、誰か知人がいるか、一人か友人と一緒か、イスラエルの後はどこへ行くのか、どこから出国するのか…」確かに数は多いけれど、決まりきった質問をほとんど形式的にしているようでした。こちらは時間がかかることを覚悟していたのですが、ヨルダンとは逆にシステマティックに手続きが進むので、拍子抜けするほどすぐに終わってしまいました。
むしろ、イミグレーションを出てからエルサレム市内までの乗り合いタクシーの出発を待つ時間の方が長かったです。何しろ、10人集まらないと出発しないのに、私たちが最初の二人。ここは気長に待つしかありません。しかし乗り合いタクシーと言う名のミニバスの運転手は親切で、市街に着いてからも宿への道順を教えてくれました。彼は見た目からも職業的にも、アラブ系ムスリムのイスラエル人だったのでしょう。その彼に、私は不覚にもヘブライ語でダウンロードしていた地図を見せていました。それを眺めながら、
「この言葉はなんだい?見たこともないね」
と言った、ただ静かな顔が印象的でした。
お昼過ぎ、たどり着いた新市街のアパートメントは、受付に人はいるものの、きっかり16:00から18:00までのチェックインの時間になるまでは部屋に通してくれそうにありませんでした。仕方なく、荷物を置かせてもらい、まずは足馴らしに歩いて片道15分ほどの旧市街へ。戻ってきてから、すぐ近くのマハネ・イェフーダ市場へ買い出しに行くことにしました。食料品店や飲食店が並ぶ市場内の中央付近には屋根があり、雨から逃れた人も流れてきてか、なかなかの賑わいでした。
イスラエルは物価が高いと聞いていたので、滞在中は自炊するつもりで調理しやすい野菜や調味料などを買いました。トマトとナス、ズッキーニ、ニンニク、山盛りのイチゴにサラダ用のフェンネル。生鮮食品の値段としては日本とほとんど変わらないか少し高いくらいでした。
さらに市場の通りに面したワインショップでおすすめのワインを買い、気が付けばもう17時過ぎ。ついつい、すぐ横に並ぶ惣菜に目を奪われ、吸い込まれるように店内へ。そこは地元の惣菜とチーズの店でした。
「ご用向きは何でしょう、お嬢様」
ショーケース越しに店員が話しかけてきました。40代くらいで中肉中背の、はきはきとしたこの店員、何を言うにも語尾に「My lady(お嬢様/奥様)」と付けてきます。そしてケースを移動するたびにサーバント(召使)のように平行移動して控えているのです。
「なんなりと仰せください、お嬢様」
「そちらは当店のおすすめでございます、お嬢様」
「いかほどお取りしましょう、お嬢様」
「ハード系ですと、こちらなどよろしいかと。ええ、山羊でございます、お嬢様」
バカにしているのかと思いきや、本人はニコリとも笑わず至って真面目に接客中。大きな声で繰り返される「My lady」に、言わせているわけではないのにだんだんこちらが恥ずかしくなってきて、お勧めされた山羊のチーズと、デザート用にリコッタチーズを少しだけ購入し、逃げるように店を後にしました。いかに自分が小市民であるかを再確認してしまいました。
パスタにトマト缶、はちみつとオリーブオイルをスーパーで追加購入し、パン屋でパンと焼き菓子を少し。今度はチェックインの時間に間に合わない?!とあわてて滑り込み、アパートの部屋へ入ってみれば、調味料は短期滞在用に少量ずつ用意されており、塩や胡椒は買わずとも十分な量がありました。両手いっぱいの食糧に、少し買い過ぎたかなと思ったものの、この多めの食材には後々助けられることになるのでした。
夜、寒さに弱い友人は冷たい雨に負けて早々に就寝し、私は一人、ダイニングのテーブルで買ってきたワインの栓を開けていました。お店の青年に勧められたのはゴラン高原の赤ワイン。オレンジ色の照明に柔らかく照らされた部屋のなか、白地にカラフルなランプのような器が控えめに描かれただけの、シンプルなエチケットが浮かび上がります。何となく異国情緒のようなものを感じながらグラスに注ぎ、香りを楽しみ、アメジストのような深い紫色の液体を一口。My ladyに追い立てられるように買った、山羊のチーズを噛みしめて舌で溶かしてから、また一口。
紀元前2000年の昔からワインを作り続けてきたイスラエル。その発祥の地と言われながら、7世紀から600年続いたイスラムの支配下では醸造が禁止され、土着のブドウ品種が根こそぎ引っこ抜かれてしまったというイスラエルワイン。現代ワイナリーができ始める19世紀の終わりまで、この国のワインの歴史は途絶えたままだったと言います。ブドウの品種も、古来のものとは違うでしょう。でもこれが、この特別な土地で作られたワインの味。
イスラエルに来たんだ。古から信仰の中心であり、紛争渦巻く街に。
降り続く雨をぼんやり見ながら、そんな感慨にふける夜でした。
2に続く
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