雨のエルサレムで、ワインとチーズを 3

中東・アフリカで生き抜く
エルサレム、聖墳墓教会の内部天井

金曜日はエルサレムと言う街において特別な日。ムスリムにとっては念入りに礼拝を行う聖なる日で、キリスト教徒にとってはイエスの受難をたどるヴィア・ドロローサ(苦難の道)を歩く日であり、ユダヤの安息日の始まりでもあります。

私たちはこの日、またしても偶然に、午前中の聖墳墓教会で日本人バックパッカーの二人に会い、「今度会ったら聞こうと思ってた」という友人の言葉に促されて連絡先を交換。

雲が目まぐるしく流れているものの、何とか晴れ間も見えそうな天気に、今のうちとばかり、迷路のような旧市街の中を連れ立って歩きまわりました。

金曜の夜には踊り狂うユダヤ人で埋め尽くされるという嘆きの壁も、昼頃はまだ人もまばら。セキュリティーチェックを通った先に開けた広場がありました。手前の方には手水のように身を清めるための水場が、その先に向かって左が男性、右が女性たちと区切られています。

熱心な祈りの邪魔をしないようゆっくりと進み、壁に触れてみました。石の継ぎ目のところどころからオリーブ色の草が生えたベージュの壁は、その前へ立ってみると、重苦しい歴史とは無関係なように穏やかにも、何百年何千年もの祈りや嘆きが迫ってくるようにも見えました。

戻る時にはまた一定の距離までゆっくり後ずさるのが決まりらしく、これには神道における神前の作法を思い出して、お清めの水場のことと言い、不思議と懐かしいような気持ちがしました。

広場を後にした私たちは、来た道には戻らず、ユダヤ人街に入って少し上の階層を目指しました。バルコニーのようにせり出したスペースからは、下に嘆きの壁の全貌が見え、目を上げると左奥にイスラムの聖地、「聖なる岩」を祀った岩のドームを臨むことが出来ました。この、かつてエルサレム神殿のあった壁の向こう側は、神殿の丘と呼ばれて今はムスリムが管理する土地となっており、残された西側の壁だけがユダヤのもの。ことほどさように、近く、深く、二つの宗教は重なり、そして隔てられているのだと思わせる景色でした。

嘆きの壁と岩のドーム

ユダヤ人エリアを後にした私たちは、今度は観光ガイド片手にヴィア・ドロローサを回り始めました。やがてフランシスコ会の修道士率いる大行列と行きあい、人ごみにもまれながら14のステーション(留)を巡りました。 途中で、ナップザックを背負った男の子に遭遇。ひょろりとした体形にメガネ。ザックの両サイドのポケットに1リットルのペットボトル入りの水を差し、アラブ街スーパーのものと思しき破れそうに薄い色つきのビニール袋に、めいっぱいお土産を買いこんだ、見るからに学生然とした彼は、ヨルダンからのイミグレで別れたもう一人の日本人でした。 私たちは再会を喜び合い、 ともに坂道を上り始めました。

行列は一つ進むごとに人々を吸収し、長く、さらに長く、もはや先頭がどこにいるのかもわからないまま、漫然と流れに乗って終着地の聖墳墓教会へと着きました。この場所はゴルゴダの丘とされ、イエスの墓があると言われています。歴史を感じさせる建物で、モザイクなどの内部装飾も素晴らしいですが、教会自体の見学は人ごみの少ない他の日か、朝早くに済ませておくことをお勧めします。

人で埋め尽くされた教会の中で、どこからともなく聞こえてきた聖歌のような祈りの合唱に耳を傾け、やがて吸い込まれるように消えていったのをきっかけに、道行を終えて外へ出ることにしました。

聖墳墓教会、降架されたイエスの遺体が置かれたとされる石に額づく人々

中心部をぐるっと囲う城壁を出て、旧市街から南の一画、シオンの丘に建つ鶏鳴教会を訪れました。最後の晩餐でイエスが弟子ペトロに下した、「鶏が鳴く前に、あなたは私を3度知らないと言うだろう」という予言のとおり、捕えられたイエスの仲間ではないかと疑われたペトロが、3度これを否認すると鶏が鳴き、予言を思い出したペトロが号泣する、という聖書の有名な逸話の舞台となったのが、現在の鶏鳴教会です。

ペテロと言えばイエスの弟子の筆頭であり、カソリックの初代ローマ教皇であったわけで、その彼をして裏切りを犯す、人の罪深さを表すエピソード、といったところでしょうか。

ターコイズブルーの屋根が鮮やかな教会のドームの上には、その名のとおりに金色の鶏がのっていました。内部はステンドグラスやモザイクが効果的に使われ、静謐な空気を醸し出しています。一歩外へ出てみると、さらに前時代の遺跡のような庭があり、いくつもの時代の連なりを感じる場所でもありました。

ユダヤ教の大司教の跡地であるこの地でイエスは有罪となり、磔刑にむけて苦難の道をたどることになることから、かつてはヴィア・ドロローサの留にも加えられていたことがあると言います。一帯には聖母マリア永眠教会やダビデ王の墓なども点在します。

シオンの丘に建つ鶏鳴教会。向こうにエルサレムの街を臨む。

旅の道連れと別れた私たちは、16:00過ぎにアパートのある新市街へと戻ってきました。すると、あれだけ賑やかだった大通り沿いも、市場の辺りにも、軒並み店じまいされており、人っ子一人見当たりません。

「今日の夕方からシャバットだから、早いところ夕飯を買わないと」

別れ際の男子学生の言葉が頭をよぎりました。

まさか…

そのまさかを肯定するかのように、静まり返ったユダヤ人街に突然、大音量でブザーの音が鳴り響きました。

これか!

例えばイタリアなどを旅した時も、日曜には教会へ行くから閑散とすると言われていても、観光客向けの店くらいは何件かやっているのが常で、何とかなるだろうと思っていたのです。イスラエルと言う国に住むユダヤ教徒の厳格さを甘く見ていました。店はもちろん、トラムやバスなどの公共の交通機関も丸一日ストップするため、移動もままなりません。廃墟のような市場に響き渡ったブザー音を最後に、静まり返った街。安息日とはもはや仕事をしないのではなく、「してはならない」のだという、頑なな信仰心を感じずにはいられませんでした。

急き立てられるようにアパートへ帰り着き、この日は何をするのも早々に諦めてひきこもることにしました。

不幸中の幸いは、初日にいささか十分すぎるほどの食材を買い込んでいたこと。工夫すれば、明日くらいまでは何とか飢えずにやり過ごせるくらいには余裕がありました。帰って調理を開始する頃には、私は残った食材でいかにバリエーションをつけようかと考えていました。

夕食として作ったのは、2種類のパスタです。一つは羊肉ハムの残りとナスをニンニクとともに炒め、ホールトマトで煮詰めたソース。もう一つは多めのオリーブオイルでハムとニンニクをよく熱し、塩とガリガリ削った黒こしょうをたっぷり利かせたところへ、パスタの茹で汁を少しずつ入れて乳化させ、麺を入れてから最後にこれまた残っていたチーズを投入して絡ませた、なんちゃってカチョ・エ・ペペ風。

私は赤ワイン、友人は甘口の白ワインを手に、向かい合って乾杯しました。カチョ・エ・ペペはもともと羊のチーズで作るので、図らずも残り物で本格的なイタリアンが。パンチェッタの旨味がないのがさびしいけれど、何とか赤ワインが進むくらいのパンチが出せたような気がしました。それに、羊の肉に羊のチーズとはなんともユダヤの国にいる感じがして愉快でした。

しかし、ユダヤ教の食事規定コーシェルによれば、肉と乳製品は一緒にとってはいけないことになっていますから、この食卓は彼らにとっては完全にアウト。戒律を守るために食器はもちろん、シンクまで分けるという徹底ぶりからすると、何でも食べるアジア人の浅はかな感慨など、へそで茶が沸くようなものかもしれません。

「そう言えば今日はあまり降られなかったね」

友人のつぶやきから、確かにエルサレムに来て初めて、合羽なしで過ごした一日だったと頷きました。ただ、外ではまた暗い雨がしとしとと降り始めていて、明日の天気に期待は持てそうにありません。朝焼けが綺麗に見えるという高層のアパートメントでしたが、結局、滞在中に日の出を拝むことはありませんでした。

翌日まで雨は静かに降り続き、昼までだらだらと過ごした私たちは、ようやっと小降りになったのを見て重い腰を上げました。新市街から徒歩でずっと道を下ってファーストステーションと呼ばれる辺りへ行き、さらに谷底から旧市街まで登り、閑散としたユダヤ教区を通り抜けてイスラム教区まで来ると、何事もないかのように店が開いていました。そのうちの一つでファラフェルサンドのブランチを取り、ブラブラとヤッフォ門まで来てから、ダビデの塔へ。この頃には行き交う雲間から青空と日が差し込んで、雨上がりに城塞から眺めるエルサレムの街がことさら美しく見えました。

ダビデの塔から臨むエルサレム市街

夜になってから、再びダビデの塔を訪れ、城壁に映し出されたプロジェクションマッピングでエルサレムの歴史が移り変わるさまを楽しみました。この時には既に街はもとの活気を取り戻し、行き帰りに賑やかな声があちらこちらから聞こえてきました。

帰る道すがら、自分がエルサレムに来た理由を何とはなしに思い出してました。私は3つの対立する、しかし根源を同じくする宗教が一つの場所に押し込められて、どのように交わって生活しているのかに興味がありました。当然反発はあるだろうし、もめ事もあるかもしれない。けれど同じ空間で生活する以上、どこかで妥協し関わり合いながら生きているのだろうという思いがありました。突き詰めるなら、そこには少しの、希望にも似た期待があったかもしれません。

果たしてどうだったのだろう。

こんなに短い滞在で深くまで理解できるはずもありません。ただこの街で私が感じたのは、重なる年月と裏腹に、それぞれに確立された宗教観と、互いへの積極的な無関心。イミグレから街に着いたときの運転手の言葉。ヘブライ語を見て、

「そんなもの、見たことがない」

と言った、彼の静かな表情が、滞在しているあいだ幾度となく蘇ってくるのでした。

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