英国の食事は不味い、というのはずいぶん昔から、万国共通のジョークのネタだ。飽食の時代にあっても、この不名誉なイメージが払拭される気配はない。もはや英国人自身が自虐的な文化の一部として維持していこうと心掛けているような気さえする。
とはいえ、料理に興味を持つ人自体は増えてきているのも事実。テレビでも料理番組は常にやっていて、国営放送BBCの「ブリティッシュ・ベイクオフThe Great British Bake Off」(近年民間の放送局へ移行)など、日本へ帰国してからも新シーズンを追いかけて見ているような魅力的な番組が多い。美味しいかどうかは別として、料理が趣味だという英国人も何人もいた。ロンドンなど大都市へ行けば、お店の選択肢も増えてきて、多少のお金を惜しまず選べば、それなりのものが食べられる、こともある。
少なくとも、「食べて調子が悪くならず、働けるだけのカロリーが取れれば良い」とか、「とにかく火が通っていれば」とか、はたまた「食べ物にこだわるなど堕落している」的ないわゆる〝伝統的〟な風潮は、一般的にはなくなってきていると思う。
ただ、地方は都会のようにはいかないし、正直なところ、スコットランドに美食ブームがやってくるのはさらに遠い先のことのような気もする。もともと名物と言われるようなもの、例えばスコーンや揚げ物などを食べるぶんには、そうは外れようもないけれど、いかんせん毎日食べるものではない。外食はほぼ全て、味に見合わぬ高さだと考えた方が良い。
つまるところ、英国で日常的にまともな食事をとるには、自炊するしかない。
こう書くと悲観がすぎるようだが、自炊はなにも消極的な選択肢というわけではない。英国だって、食材はまともなのだ。誤解を恐れずに言えば、調理法が貧しいだけである。大型スーパーや休日に街角でたつファーマーズマーケット(農家の市場)を覗いてみれば理解していただけると思う。特にスーパーは生鮮食品から加工品までありとあらゆる「英国」がつまった食材の宝庫だ。買出しに出かけると、ひと回りするだけであっという間に時間がたってしまう。
私が留学していたスターリングという街は、スコットランドで最も小さな「都市City」で、中心部は端から端まで歩いても三十分ほどかというコンパクトさだったが、それでも、英国内で知られる有名どころのスーパーがいくつか点在していた。
時間があるときには、よくそれらをはしごして値段や品ぞろえを見比べてみたりした。そのうちに、なんとなくお気に入りのチェーンが決まってくる。同じ時間にそこへ行く頻度が高くなると、いつもいるレジ打ちのお姉さんの顔を覚えてきたりする。それは向こうも同じだったろう。毎週末に一週間分の食料を買い込んでリュックに背負い、大きくて丈夫なジュート(麻)のエコバッグを両手に下げてよたよた帰っていくアジア人は、他の人よりちょっとばかり印象に残りやすかったかもしれない。
あるとき、平日に街中を歩いていたら前から若い女性がやってきて、「Hi!(どうも)」と言いながらニコっと笑ってすれ違っていった。
どうも知っているような顔だな、でも思い出せない。誰だっけ…
しばらく記憶を探りながら歩いていたが、馴染みのスーパーの前まで来て、カートを引き出すのに一ポンド硬貨を取り出したところで、あっと思いだした。
レジの人だ!
ともかく、スーパーへ行けば、見ているだけでわくわくするような食材がたくさんあった。季節ごとのラインナップは日本ほど豊富ではないが、拳大のポテトだけで何種類もあるし、なじみのない野菜も多くて面白い。日本では見かけないものも、一つずつ買っては試すうちに、くせになるような味に出会ったり、知っている食材に似ているのを発見したり。
衛生管理のせいか、食品が賞味期限前にダメになったりすることも多々ある一方で、オーガニック市場が大きな英国では、環境や人体に配慮した食材が身近で、どこでも多く目についた。食材に関してみれば、良い悪いということはなくて、単に母国との「違い」があるだけだった。
日本では、果物は甘くて高いが、英国では見かけや味はそれほどでなくとも、もっとずっと手に取りやすい。嗜好品としてだけでなく、庶民的な健康食品としての位置づけも大きい。秋口にTESCO(英スーパー最大手)の青果コーナーへ行くと、手前に小ぶりのリンゴが山盛り積まれた木箱が置かれていた。近づいてふと目をやれば、「Free for kids(子供に無料)」とある。そんなことがあると、うまい不味いでは測れない、国の豊かさを感じるのだった。
自炊のための買い物には、そういった違いを一つ一つ発見する楽しみがあったし、日本では高くてなかなか買えない物が安く売っているのも嬉しかった。留学中に生ハムやら各種各国のチーズやらを一体どれだけ食べたことか。和食や調味料も含め、アジア食材ですら思ったよりも品揃えが充実していて、料理をするうえでほとんど不自由はなかった。
ところが、中にはどうしても受け入れがたいものも存在した。
その最たるものが、「Well fired」と表記されたパンだった。慣れない異国での生活でカルチャーショックを受けたことは多々あれど、ことこれに関しては目にした瞬間、固まってしまうほどの衝撃だった。
なにしろ、とにかく真っ黒に焦げたパンが、そのまま商品として売っているのだ。
Well Fired…「よく焼いた」とでも訳すのが正しいのだろうが、どう見てもそれは「Well Burnt(よく焦げた)」と評すべき代物だった。部分的に焦げ目のついたとか、こんがりきつね色、とかいうレベルではない。文字通り、真っ黒。表面すべてがまんべんなく炭化しているテーブルパンが、陳列棚に整然と並んでいるのを見つけた、昼下がり。
「うわ、失敗したやつ売ってる」
冗談ではなくそう思った。唖然とするが、ありえないことではない。
賞味期限前に腐る食材があるなどはご愛敬。賞味期限が当日の商品だって堂々と並べられているし、同じメーカーの同じ商品でも、時には味が違ったりする。そんな場所では、焦げたパンだって、「まぁ捨てるの勿体無いし、誰か買うかも」くらいのつもりで棚に並べるくらいのこと、ちょっと流石にひどいとはいえ、なくはない。厚かましくも「よく焼いた」とは、いやはや…
しかし、ことはそう単純ではなかった。最初は呆れ半分、不可解さを半分残したまま、半信半疑で店を後にした。しかし心の奥底では、まさかという気持ちもくすぶっていた。その気持ちが、翌週も、さらに次の週も、私をベーカリーコーナーへ向かわせた。そしてどちらのときも、このパンは「商品」として一角に鎮座していたのだ。
そう、それはあえて焦がされた、もとい、焦げるほど「よく焼かれた」、れっきとした製品だったわけだ。
イギリス人、恐ろしい人種…
そう思ったのは私だけではないはず。どう考えても美味しくないし、身体にも悪いものを一体全体何のために買ってまで食べるというのだろう。不可解すぎて恐ろしい。人間は理解できないものに恐怖を感じる生き物である。
しかして早速ネットで検索すると、やはり出てきたこんな記事。
Supermarket denies selling burnt bread: ‘It’s just well-fired’ – Shoppers have been startled by the blackened rolls appearing on Sainsbury’s shelves(スーパーが焦げたパンを売っているのを否定:「ただよく焼いただけ」ー買い物客はセインズベリーの棚にある黒い(焦げた)パンに困惑
Supermarket denies selling burnt bread: 'It's just well-fired'Shoppers have been startled by the blackened rolls appearing on Sainsbury's shelves
英テレグラフ(www.telegraph.co.uk)のネット記事で、失敗作に名前をつけて無理に売ろうとしていると思った英国人から苦情が相次いでいる、と書いている。
記事内では実際の困惑の声も紹介していて、曰く、
「「よく焼いた」っていうのは、誰かがパンを焦がしたら出てくる表記なわけ?」
「ほんっとうによく焼けてるよ。まぁ普通焦げてるっていうんだけど」
「セインズベリーの焦げたパンについての発想の転換には賞賛を送るべきね」
セインズベリーというのは英国の大手スーパーの一つで、この件では集中攻撃されているが、私が写真のwell fired breadを見つけたのはTESCOという別の大手チェーンだ。
スーパー側は律儀に
「そう見えるよね、混乱させてごめん!」
「確認したんだけど、これってそういう商品なんだって。焦げてるんじゃないんだって。ふぅ!」
とかツイッターで呟いているらしい。
記事ではさらに、衝撃の本質(?)に迫ってゆく。すなわち、この不可解な物体が実は、スコットランドの一部で長く愛されてきたという事実に。
このパンを愛するスコッツ(スコットランド人)の声を抜粋してご紹介しよう。
「俺はwell fired rollが大好きだ。スクエアソーセージ(スコットランドの四角い香辛料入りのソーセージで、薄く切って食べる)やタティスコーン(スコットランドの芋のパンケーキ)と一緒に食べると最高だぜ」
「私のパパは二日酔いを治すのに最高だって言ってる。炭が血中のアルコールを吸い取ってくれるんだって」
「あれって最高よね。焦げてれば焦げてるほど良いの!私の地元の店では、いつもすぐに売り切れちゃうわ」
未知の味覚の持ち主と、炭が癌化ではなくアルコール分解に役立つと思っている酒飲みが生息する国。もはやちょっとしたギャグのようだが、スコットランドで人気があるのは事実かもしれないと思う。初めて見つけた時も、にわかには信じられずに写真撮影を始めた私たちを押しのけて、おばさんとお兄さんが1袋ずつ購入していったっけ。実のところ、いつも陳列棚は残り少なかった印象がある。
ちなみにセインズベリーでは、1980年代から商品として生産しているそうだ。日本におけるコアラのマーチやハーゲンダッツと同じだけの歴史を持っているわけである(どちらも1984年発売)。
スコットランド人…恐ろしい人種…
ここまでくると、逆に面白くなってきた。
いっとき話題になってからしばらく経っても、タブロイド紙には記事がちらほら取り上げたられていた。
なかなかひどい言われよう。
だがこれを見ると一般的な英国人からしても、ちょっと異様に思われているのがわかる。やはりあれに疑問を感じるのだと知って、ホッとすると同時に何故か少し残念なような気がするのは何故だろう。
商品誕生の発端が、例によって「とにかくよく火を通さなければならない」という強迫観念によるものなのか、正真正銘失敗して焦がした商品を何とかそれっぽく名付けて売ってみたところ好評だったということなのか。個人的には、焦げたのを売ってみたら、もはやDNAにしみついた「火を通せ」という指令が働いたのか何なのかわからないが、意外に人気が出た、という辺りじゃないかと思う。
いずれにしろ重要なのは、この商品を好んで買う人々が一定数存在するという事実である。主に、スコットランドに。
このwell fired rollsに加えて、ウィスキーを凌駕するスコットランドの国民飲料であるIrn-Bruアイアン・ブルーだけは、私には最後まで馴染めなかった。そういえばこのIrn-Bruも、二日酔いに聞くという話しがまことしやかにささやかれている。つくづく酒飲みの国である。
しかし当然ながら、世界にはいろんな嗜好を持つ人がいるものだ。自分や一般の好みとは違っても、一定数の需要があれば、始まりがどうであれ、誰に何と言われようと、商品として成り立つのだ。
引用:Adam, B (2016). Supermarket denies selling burnt bread: ‘It’s just well-fired’ – Shoppers have been startled by the blackened rolls appearing on Sainsbury’s shelves. The Telegragh. [online] Available from: https://goo.gl/64aYdN [Accessed at 27. June .2018]
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