ツンなミラネーゼ、デレるオランダ人 下

イタリアで食い倒れ
ミラノ初日の夜、地元民で賑わうトラットリアで頼んだ、ナスとトマトのパスタ。

「お腹すいた」

およそ12時間のフライトのあと。ミラノ中央駅近くの、ビジネスホテルにしては広く快適そうな部屋にスーツケースを置き、広げる間も無く、夕食を取りにいくことにしました。

日が暮れてから旅先に着き、土地勘のない状態で美味しいご飯にありつこうというときに、宿泊しているホテルの受付でお勧めを訪ねるのは定石でしょう。

正直に言えば、この方法で美味しいものにありつく確率は五分五分と見ています。

理由はいろいろありますが、そもそも聞かれた当人の食への関心度によって紹介できる飲食店の質にもばらつきがあるのは当然のこと。

その点、一定以上のランクのホテルであれば、大抵は個人ではなくホテルとして贔屓にしているレストランなどがあるでしょうから、そこそこの評判のところは回答として用意しているはずです。ただし、値段も味もそれなり、新鮮さや驚きは期待できないかもしれません。

アットホームなゲストハウスやBBなどに泊まるなら、フレンドリーなスタッフにお勧めを聞くと思いがけぬ掘り出しモノを見つけられることがあります。しかし一方で、地元っ子の行きつけの店で必ずしも美味しいものが食べられるとは限りません。味覚の違いというのももちろんありますが、我々だっていつも特別美味しいものばかり食べている訳ではないのと同じです。

なかなか、「間違いない方法」というのは難しいものです。

とは言え、人に聞くのが一番楽で手っ取り早いのは事実。

結果はどうあれ、コミュニケーションの一環としてお勧めの食事処を尋ねる、というのは悪くない旅のスタートでしょう。

ところが、今回はあのブリザードをまとったロボットのようなレセプションに美味しいお店を聞きにいく気力はありません。大人しく地図とネットの口コミで無難そうなところに目星をつけ、そそくさとホテルを出ました。

ほんの数十メートル先にあったレストランは、週末だったせいもあり、早めの時間でもほぼ満席状態でした。

入り口で

「予約はある?」

という問いにないと答えると、年かさのウェイターは「ふぅっ」といささか大げさにため息をつきました。そして店内を見回し、

「ちょっと待ってて」

と言って真ん中あたりの2人席を空けてくれました。

なんとか食事にありつけそうだとホッとしながら席に着き、店の中央に鎮座するピザ窯を見て、とりあえず、と注文しました。

とりあえず、ピザにパスタ。

もちろん、他に美味しいものがたくさんあるのがイタリア。しかし、王道も美味しいのも、またイタリア。

「名物にうまいものあり」それがこの土地の良いところです。

適当に頼んだ、ナスとトマトのパスタに、ジェノベーゼとハムのピザは、実のところ少々期待はずれではありました。

自慢ではないけれど、本格的な各国料理が楽しめるようになった昨今の東京からきた私たち。これくらいなら、日本でも十分に食べられる。なんならこのパスタは家でも作れるレベルじゃないかなどと言い合いながら、着々と食べ進めていると、なにやら隣から視線を感じました。

窓際になる隣のテーブルでは、私たちが入店する前から壮年と見えるご夫妻が食事をしていました。そのうちご主人のほうが、じっとこちらを見ているようでした。

さりげなさを装って、ちらり、と視線をむけると、ばっちり目が合ってしまいました。

「美味しいかい」

そのままご主人が話しかけてきます。

「ええ、まぁ」

日本語で言いたい放題言っていた手前、少しばかり気まずい気持ちはありますが、しかし実際にまずいわけではありません。とりあえずは日本人らしく、無難に慎ましやかに「美味しいですよ」と答えました。

しかしなぜそんなことを?

「そうだろうねぇ」

私たちが怪訝そうにしていると、ご主人はさらに話しを進めました。

「とても美味しそうに食べていたからね。それに、ナイフとフォークの使い方も上手だ」

まぁそれは、箸ほどではないにしろ、日常的に使っていますのでと正直に言うのもはばかられ、素直にお礼を言ったものの、モヤっとしたものが残ります。

以前、お寿司屋の板さんに、「最近は外国人に箸使いをほめても、あまり喜ばれない」と聞いたのを思い出しました。まさかここへきて、逆の立場でそんな外国人の気持ちを思い知るとは。昨日今日使い始めたわけじゃなし。確かにこれは、もはや万人受けするほめ言葉にはならないということでしょう。

「どこからきたの」

苦笑する私たちにかまわず、ご主人は話しかけ続けます。

「日本です」

「ほう、だからだね。他のアジアの国だったら、中国人だとか韓国人だとか、そんなに上手くカトラリーを使えないだろうからね。」

実に、返答に困る切り返しを畳み掛ける人です。

しかし悪意はなく、むしろこちらを持ち上げようとしてくれているのがわかるので、無下にはできません。

「日本か。一度行ってみたい国だと、妻とよく話しているんだ。日本のどこからきたの」

「東京です」

「東京!ビッグシティだね」

「えぇ、人が多くて、忙しい街ですよ。短い間なら良いけれど、滞在するのは正直あまりお勧めしません」

「ふうん、そんなに。人口はどのくらいなんだ?」

「えっと、今、ですかちょっとわからないなぁ

旅先では時々、この手の赤っ恥をかくことがあります。自分の国のことほど知らないと思い知らされ、答えられない情けなさや申し訳なさを実感する、ということが。

「調べてみたらどうだい。WIFIがあるだろう」

顔を見合わせる私たちにしびれを切らし、どうもせっかちなご主人は自分のスマートフォンを取り出して検索し始めました。

このすきにピザをもう一切れ。

「わかったぞ!」

残念、一切れ分も持たないとは。

「nine million (900万)だ」

ここで、恥の上塗りを覚悟の上でもう一つ、私がすこぶる数字に弱いということを白状しましょう。

英国での生活で多少英語が理解できるようになったとはいえ、こと数字を伴う話題となると、途端に頭の動きが鈍くなり、時には真っ白になって前頭葉がぼぉっとすることもしばしば。英語のニュースを聞いていても、大きな数が出てきた時点で、とっさにそこだけ空白になってしまう有様です。

流石にこんなことでは良くないと、フラットの勉強机の上に、1万から1兆までの英語の早見表を作って貼り付けました。ところが、結局は2年の間、その紙はただそこにあり続けただけでした。きっと来る日も来る日も、真正面にありながら視線の合わない私に愛想が尽きたことでしょう。貼った本人としては存在を忘れているわけではなく、むしろ「書いておいた」ということにこそ満足してしまっているのが始末に悪いのです。単に興味がないというよりも、無意識に避けているのではないかと、自分の脳みそを疑いたくもなるというもの。

苦手意識は今でも抜けず、数字と対峙するにはあらかじめ心構えをさせてほしいというのが正直なところです。

しかし、大人になれば、そんな可哀相な頭の中をむざむざ公表する必要もありませんので、適当に相槌を打ったり驚いて見せたりすることで、大抵の会話は滞りなく進めることはできます。もっとも、つい気になって帰ってから自分で調べることも、ままあるのですが。

今回も、「ナインミリオン」を数としても日本語としても正確に理解しきれないまま、訳知り顔で頷いて見せたのですが、後で調べたところ、平成30年1月1日現在の東京都の人口は 13,754,059人。都市部への人口流入が続いていますから、おそらく彼の見つけたデータは何年か前のものだったのでしょう。900万でも大げさなほど驚いていた彼らに、今は1400万人近い、と教えてあげられたなら、東京という都市の印象はもっと強烈に残ったかもしれません。

ともあれ、話題は「うちの国とは全然違うね」というところから、彼らの母国オランダの方へ移り、ご主人による地球温暖化がオランダに及ぼす影響の講義がひとしきり続きました。ここでも海抜や国土についての多くの数字が飛び出したので、若干冷や汗をかきながら聞いていました。

そういえば、高校受験の際にいっとき通っていた塾の先生が上手な方で、環境対策の先進国としてのオランダについて学んだおり、そうなった理由までわかりやすく説明して下さいました。このことは大人になってからも幾度となく思い出す機会がありましたが、ミラノの食堂で出会ったこのオランダ人の熱弁は、さらに現実味と具体性を伴って「低地(オランダの国名Netherlandの語源)」に生きる人々の危機意識を感じさせるものでした。

曰く、オランダの国土は60%以上が海抜0メートル以下で、温暖化が進むまでもなく、工学的な措置を講じなければ沈んでいておかしくないのだということ。しかしそれ故に、水害対策への備えや技術は著しく発展しているのだ、ということ。

危機的な状況から得た自国の技術的発展を誇らしげに話し終えたご主人は、感嘆の相槌をうつ私たちに気を良くしたのか、「どんな仕事をしているんだ」「専門は何かね」といった会話を挟んだ後、とっておきのことを教えてあげよう、というように身を乗り出しました。

「うちの子供たちはね、娘と息子がいるんだが、実は2人ともドクターなんだ」

これには実際、驚きました。

ここでいうドクターとは、医者ではなく、Phd、すなわち博士号のことです。

海外での滞在記やエッセイなどを読んでいると、大学院や博士、教授といった人々がわんさか出てくるものがありますが、実際にそういった世界にいるのはほんの一握りの、特別に恵まれた、あるいはちょっと変わった人々です。そして多少なりとアカデミアの世界を垣間見たことがあれば、博士(ドクター)の称号というのが、やはり並の幸運や頭脳、努力で手に入るものではないとわかると思います。

子供が2人とも博士とは、それは誇らしいことでしょう。

大げさに驚いてみせた私を見て、ご主人は再びいそいそとスマートフォンを取り出しました。

あぁ、これは…

と思った時にはもう、娘と息子の写真をみせながらの自慢大会の始まりです。

「娘は今年婚約してね、来年結婚式なんだ」

向かいの奥さんも嬉しそうに頷きます。

写真には知的な美人が写っており、偶然にも、彼女は私と同じ年だということもわかりました。全く別次元のものとして見ている分には傷つかないものを、何か一つでも共通点が見つかってしまうと、比べずにはおれないのが人間の哀しい性。

長い足に彫りの深い目鼻立ち。およそ同じ人類とは思えないほどの差に、こちらが密かに落ち込んでいる間にも、ご主人はどんどんエスカレート。今度は奥さんのとっておきの写真を披露し始めました。

「どうだい」

こういう場合、聴き手には持ちうる限りの語彙を駆使して褒めちぎることが求められているのは言うまでもありません。

あらかたの賛辞を出し尽くしたところで、そろそろまぶたも重くなってきた私たちは、ボキャブラリの貧困さをこれ以上露呈する前に、お暇することにしました。

感動するほど美味しいものにはありつけなかったものの、隣り合わせたご夫婦のおかげでなかなか楽しい時を過ごすことができたミラノの夜。

それにしても、私たちが入店した時にはほとんど食事を終えていたお二方は、話しながらワインのボトルを空け、追加のグラスを頼み、二人で仲良くデザートを分け合う、なかなかの健啖振りでした。

オランダ人はとんでもなくケチだ、というのが口癖のようなイギリス人の知人がいましたが、旅行をしているとバカンス中のオランダ人によく遭遇します。彼らは大抵、家族やパートナーと異国の土地で過ごす休暇を心から楽しんでいるように見えます。

顎のガッチリした、どちらかというと強面の相好を崩して、自分の家族について話していたあのご主人は、少なくとも笑わないミラネーゼより人生楽しそうだと、ふと思った夜でした。

ミラノ初日の夜、地元民で賑わうトラットリアで頼んだ、ナスとトマトのパスタ。

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