アンディ・マリーが結婚式を挙げた時、私はその翌日だか翌々日だかに、知人の車に乗せられて、ダンブレーンを訪れた。それまで全く意識したことがなかったのだけれども、彼の地は留学していたスコットランド中央部のスターリングから電車でもすぐだった。車なら15分ほどの距離で、アランウォーター(アラン川)沿いにあり、スターリング市内の町という位置づけだ。
ちょうど友人が下宿する家を訪れていた時に、当家の日本人の奥様が車を出してくれたのだった。現地へ行くまで、のどかな車窓を眺めながら、近隣の町を観光がてら見せてくれるのかな、くらいにぼんやりと考えていた。しかし、車を降りて一歩町に足を踏み入れてみると、なぜこのタイミングで連れてきてくれたのかがよくわかった。
町なかにはまだ〝世紀の〟結婚式の余韻がおおいに残っていた。リボンや花々、メッセージで飾られた大通りから、登っていった先には誇らしげに鎮座する金のポスト(オリンピック優勝時に記念として塗装された)。さらに奥へ進んだ小高い場所に、小さな町のランドマークであり、式場となったダンブレーン大聖堂がある。あちこちがピンク、白、グリーンを基調とした彩りにあふれ、上って下りてくると終わってしまうような小さな町全体がまるごと、晴れの日のためにラッピングされているかのごとくにぎやかだった。
大聖堂の内部は、いっそう華やかな祝福の空気に満ちていた。ここは大聖堂というにはいささか小ぢんまりとした、今や司教不在の教会の一つではあるけれども、もともと十一~十五世紀にかけてのプレ・ロマネスク様式とゴシック様式が残存する貴重な建物だ。
そんな中世の荘厳な雰囲気のなか、身廊には拳ほどの太さの生木が等間隔に配置され、明るいグレーの幹が立ち上る頭上には緑の葉が生い茂る。根元のベンチ側面にも、白い花とグリーンがたっぷり使われ、あいだを通れば森の中を歩くようなすがすがしさを感じさせた。
パイプオルガンのある奥の祭壇へ向かう手前には、桜の枝、白いアジサイとバラが装飾されており、振り返って見渡せば通路の両側に、中心が淡いピンクのバラが一面に施されていた。おまけにこの植物たちは、日を置いていると思えないほど生き生きとしているのだった。
こんな神秘的な雰囲気のなかで挙げる結婚式とは、さぞ素晴らしいものだったに違いない。大聖堂内を訪れていたほかの人々とともに、夢見心地のふわふわした足取りで見て回った。
私たちのいささか年甲斐もないほどの様子をほほえましく思ったのか、二人連れの老婦人が「そのうちあなたたちの番が来るわよ」と、ニコニコしながら声をかけてくれた。リアルな色恋と縁遠い人生を送ってきた私に、結婚願望のない友人だったけれど、そんな独り身を謳歌する我々をして、ロマンティックな妄想に浸らせる魅力が、式場には満ちていた。
教会を出たところだったか、あるいは内部だったか。ふと、childやteacherといった単語が並ぶ石板が目に入った。人々が時々立ち止まって、感慨深げに眺めていく。何のことだろうと思っていたら、「ダンブレーン事件」の犠牲者を悼んでいるのだと教えられた。
ダンブレーン事件、あるいはダンブレーン虐殺(Dunblane massacre)は、1996年、市内に住むトーマス・ハミルトンという男が、ダンブレーン小学校で起こした銃による殺傷事件だ。幼い生徒十六人と教師一人が犠牲になり、犯人の自殺で幕を閉じたこの悲劇は、英国の銃規制強化のきっかけにもなった。
当時八歳だったアンディ・マリーは、実はこの惨劇における生存者の一人だ。一つ上の兄ともども登校しており、自身は事件現場となった体育館へ向かう途中だったが、教師の指示で校長室の窓の下に隠れて難を逃れたという。生き残ったものの、恐怖と悲しみに満ちた出来事は、その後の家庭環境の変化とともに、長く彼を苛んだ。
不幸な体験はしかし、人生を築く糧ともなった。不安障害に苦しむなかで、テニスはある種の逃げ場になったと、アンディはインタビューで語っている。幼少期の悲惨な経験と苦悩が、彼を当代一のスター選手に押し上げる要因の一つだった。彼が、そうしたのだ。
歴史と花の香りに満ちたこの場所で、アンディ・マリーは結婚した。タータン・キルトをまとった英雄の結婚式を、スコットランドの人々はさぞ誇らしく見ていたことだろう。
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