人生は、一つ一つ、夢を叶えていくための、長い旅のようなものかもしれません。
大きなことでも、小さなことでも。今すぐにはできないけれど、いつか見たいものや、やりたいこと。そういうものを少しずつ叶えていく旅をしている、と考えると、単調な日常も色付いて見えるものです。
思い立ってすぐに実現できるのも、それはそれで素晴らしい。
でも、「いつかは」と夢見たものは、思いの長さだけ、特別に愛おしく感じられます。
ファンタジー小説ばかり読んでいた少女時代から、ずっと見てみたかったものがありました。
秘密の花園、時の旅人、ジェーン・エアに嵐が丘、ローズマリ・サトクリフの歴史物語…
実はハイランドが舞台でないものも多いのですが、何故か、英国の小説を読んでいて浮かぶのは、スコットランドやアイルランドの、荒涼とした風景です。
もしかしたら、ある植物のもたらすイメージが強いのが、原因なのかもしれません。
ムーア(湿原)と呼ばれる、荒涼とした土地一面に、あるいはそのいたるところに、苔むすように群生するもの。それこそ、私がずっと見たかった、『ヒース』です。ヒース、ヘザー、そしてエリカとも呼ばれることがありますね。それぞれちょっとづつ種類が違うとか、ヘザーのなかに色んなタイプがあるのだとか、専門的なことは分かりませんが、とにかく昔から物語の背景によく登場する、あれです。
しかも、一度で良いから、夏場に咲くという、赤紫色の花を見てみたいと思っていました。
さんざん夏の欧州をけなしてきたわりに、夏限定の旅行先というのもなんですが。
以前、“ハイランド”への憧れから、アイルランドを初めて1人で旅した時にも、ヘザーが大地を覆う様子や、ココナッツフラワーと呼ばれるエニシダの花が咲いているのを見ることはできました。ただ、ヒースの花をみるには、まだ寒さの残る季節でした。
スコットランドで修士論文を提出し、長いようで短かった大学での留学生活を終える時、暖かくなった日差しを浴びながら歩いていて、ふと、思いました。今がチャンスだ、と。
ヒースの花が見られるのなら、場所はどこでもよかったのですが、ちょうど行ってきたばかりの友人の勧めもあって、景勝地として有名な「スカイ島」へ出かけることにしました。
「出かける」と行っても、便の悪いスカイ島への観光は現地ツアーが基本。今回はグラスゴーからの1泊2日のミニバスツアーに参加しました。ちなみにこのようなツアーも、冬場はやっていないところが多く、スカイ島の観光じたいが、やはり春から夏にかけてをメインとしています。
何も考えず、スコットランドの縮図と言われる風光明媚な景色と気候をただただ楽しむことができるのが、ツアーの良いところ。
陽気なドライバーが、トリビアを交えたガイドで、軽快に車内を盛り上げます。
少々ぼーっとしすぎて、途中で携帯を落としたりもしましたが。ちゃんと拾ってもらえました。
スカイ島への道すがらも、スコットランド、ハイランドの景色を眺めつつの、至福の旅です。
ガイドが、
「ここは‘スカイフォール’っていうんだよ」
と案内してれたのが、この辺り。
冬場はさぞ寒々として、荒々しくミステリアスな土地になるのでしょう。
「007だな!」
と米国からの観光客。
どうも、ボンド氏の故郷はこの辺りだそうで。
ちょうど、AdeleにSam Smithといった英国の誇る実力派シンガーが、立て続けに映画シリーズの主題歌を歌っていた時期でもあり、誰からともなくハミングが聞こえ始めました。といっても、暗くさみしげな曲調は合唱向きではなかったようで、ほどなく自然に立ち消えてしまいましたけれども。
バスは刻々と表情を変える天候の中を黙々と走り抜け、グレンコーなど、写真を取ることもできないほどの迫力に圧倒される風景が続きます。
独特の雄大さは、まさに行って見なければわからない、感動的な光景です。荒涼として苔むした大地が野に山に延々と続くさまは圧巻で、こんなところで昔から生活する人々がいることにも心動かされるものがあります。
日本にない景色、という点では、まさに異世界の中をゆく風情。
バスは、スコットランドの古城などもおさえながら、いかだのような船で車ごと海を渡り、スカイ島へ入ります。
「ねぇ、あれ見える?!」
という他のツアー客の言葉に目を向ければ、船から少し離れたところを並走するように、イルカが泳いでいました。まるで川のように短い船上での景色ながら、ここが海だということを実感する出来事でした。
スカイ島では、ポートリーという町で一泊。
中心部までは15分ほど歩くB&Bだったのですが、庭先からの眺めがよく、部屋も快適で、まさに英国の民家の一室を間借りしているような気分でした。
宿泊日程のある現地ツアーでは、泊まる施設を選べることが多いので、その際はぜひ、B&Bに申し込んでみてください。そういったツアー会社はたいてい、地元の人々とも親しくしており、中心からはずれていて個人旅行では選ばないような所にある、隠れた良質のB&Bと提携している場合が多いのです。
夜は散歩がてら、街の中心にあるレストランで夕食をとりました。夜と言ってもまだまだ暗くなる気配はありません。日が長いせいで、気がつくと時間が経っており、ディナータイム真っ只中。ただえさえ少ない飲食店に、観光シーズンで客が詰め掛けています。
しまったな、と思いながらも、良さそうな店で
「1人なんだけど、まだ大丈夫?」
と聞くと、
「1時間後には予約が入ってるけど、それでもよければ」
とのこと。全然OKと返して、スカイ島での初めての食事にありつくことができました。
前菜から、見た目も味も驚くほどのレベル。無塩バターの上にザラリと乗った岩塩が、ますます期待を高めます。
正直、ハイシーズンの観光の中心地で、これほどの料理にありつけるとは思っていませんでした。サーモンのグリル、というと代わり映えしないようですが、下にひかれた野菜の火の入れ加減といい、オリーブオイルの香りが残る身や、カリッと焼いた皮の具合といい、絶妙。
適度に塩味も効いていて、ハイボールとの相性も良く、大満足の夕食となりました。
翌日は、お楽しみのスコティッシュブレックファストから1日がスタート。
濃いめの紅茶に、新鮮なミルクをたっぷり入れて楽しむ幸せ。
食事を終え、まとめた荷物を抱えて玄関先で迎えを待っていると、いきなり霧が濃くなってきました。やがて一気に真っ白な濃霧に覆われた道路から、うすぼんやりとしたヘッドライトを灯して、ツアーのミニバスがやってきたのでした。
これでちゃんと進めるのかと不安になったものの、霧は出た時と同じようにすーっと薄くなり、やがてほとんど晴れて行きました。それでも前日より曇っていて、天気自体は良いとは言い難かったのですが、しかしそこがまた、スコットランドらしさを演出していました。
そしていよいよムーアのなかをゆく様相を呈してきました。
ガイド曰く、妖精の住処らしきところでバスを降り、皆でピクシーを探します。
大の大人が案外真剣に草むらに分け入る様子がなんだか微笑ましい。
おや?
おやおや?
なんだか見えてきました。
ヘザーです!
一面の…というには少し足らないように見えますが、この辺り一帯、本当にヒースの野原で、赤紫の花の中を歩く気分を存分に味わうことができました。
咲き乱れる、とは言っても、どこかどっしりとして、景色に溶け込む色合いといい、普通の花とは違った趣があります。この花が咲くことで、荒涼とした大地に複雑な色味が加わって、夏の豊かさを感じられるのかもしれません。
スカイ島は特にヘザーが有名というわけではないので、おそらくこれを目当てに参加していた人は他にいなかったと思いますが、綺麗に咲いていたこの場所で、時間をゆっくりとってくれたので、ツアー参加者は皆思い思いに花を眺めていました。
私はもちろん、時間の許す限り、ヒースに染まった平原を目に焼き付けました。
さて、夏色の大地を見たら、今度は冬の寒い時期に、コートの襟を立てながら、かさかさのヒースに覆われたムーアを歩いてみたくなりました。散歩好きの英国人が、一人で、あるいは誰かと連れ立って、黙々と歩くセピア色の荒野が浮かんできます。
一つ叶うと、また一つ。
人間は欲張りな生き物かもしれません。
でも、だからこそ、人生は楽しいと思えるのでしょう。
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