英国サマータイムと恐怖の誕生日会

Made in スコットランド
大学からの冬時間お知らせメール

日本のサマータイム導入のはなしは、ここのところ下火になったのだろうか。二〇二〇年(実際には二〇二一になった)東京オリンピック前は、賛否はともかく、ずいぶん盛り上がった時期もあったと思うのだけれど。

イギリスでは、他の欧州諸国と同じく、冬時間、夏時間が随分前から実施されていた。サマータイム期間中は、日本との時差も、もちろん変わる。標準時(グリニッジ標準時間といい、GMTと表記される)は9時間のものが、おおよそ四月から十月までは英国夏時間(British Summer Time)として8時間になるわけだ。

イギリスはじめ、緯度の高い場所に位置する国々が早々にサマータイムを導入したわけは、これらの国で暮らしてみればすぐわかる。なにしろ、夏季と冬季とで日照時間が違いすぎるのだ。私の暮らしたスコットランドでは、冬の間は十時過ぎまで明るくならず、十五時をすぎると一気に日が暮れていく。逆に春から夏になると、二十二時過ぎまで昼間のように日光が降りそそぐ日々が始まる。

この国で、冬の長さというのは、すなわち日の出ない暗い時間という意味だ。長い冬を1度でも経験すると、春先に日が伸びてくる季節が待ち遠しく、夏にこぞって太陽の下へ繰り出すヨーロッパ人の気持ちが理解できるようになる。短くとも冬に日の昇る国でこの調子だから、北欧の人々など、なおさらだろう。

イギリスでは「日焼けしている」肌が最高にセクシーで、わざわざ焼いたり、一週間しか持たないタンニングクリームを塗ったりして肌の色を濃くする人がたくさんいた。知り合いのイギリス人女子いわく、それがアジア人の肌の色であれ、とにかく「青白い肌よりマシ」ということらしい。こんな妄信的な日焼け願望も、もしかしたら日光への強い憧れや期待が関係しているのかもしれない。それと比べれば、一年を通して日照時間にさほど差異のない日本でサマータイムを導入する必要は、たいしてないような気がするのだった。

留学中、三月と十月の終わり頃になると、時計を一時間進めるように、そして戻すように、というお知らせが来た。と言っても、メールが一通届くだけ。今では、スマホやパソコンが常にインターネットと繋がっているので、気がつかないうちにサマータイムに切り替わっている、ということも多々あるだろう。

これほどネットが普及する前には、さぞ毎回の周知が大変だったと思いきや、英国のサマータイムは年季が入ったもの。戦前(第2次世界大戦以前)から実施されてきたのだから、世界で二番目に夏時間を取り入れたという英国人にとっては、もはや慣れ親しんだ制度だ。ラジオや新聞の告知をみて、時計の針をちょいと動かしていたりしたんだろう。因みに、世界で最初にサマータイムを制定した都市はカナダのモントリオール、全国規模では第一次世界大戦中のドイツとオーストリア=ハンガリー帝国だった。いずれも、ろうそくや燃料の節約のためという事情があった。

半世紀以上たって今やなじみのサマータイム。ところが、そんな欧米の習慣について行けていない留学生というのもいる。初めての年、夏時間から冬時間への切り替わりの際に、たまたま自習室を利用しようとした私は、フラットメイトの一人が一時間早く登校しているのを見つけた。そういえば、朝からバタバタと、キッチンのあたりがうるさかったのを思い出した。

中国人のシーリアは、私が一年目に大学院の準備コースを取っていたときのフラットメイトだった。彼女は当時高校卒業後に渡英したばかりで、英国の学部へ進学するための準備コースに通っていた。女の子ながら百七十センチ以上ある長身にかなり肉付きの良い体型で、とにかくいつも寝ているか、勢いよく食べているか、時々歌っているという変わり者だった。悪い子ではないのだが、欲望に忠実で、お腹が空いては食べ、どこで何をしていても気が付くと寝ていた。日本のアニメが好きで、親しくなってからは私のことを「ちゃん」付けで呼んだ。ある意味では擦れていない純粋なところもあり、その言動は年齢よりも幼く見えたが、大事なこともすぐ忘れてしまう、と言った具合に社交性がなかったので、皆から疎まれがちだった。

きっと誰も、サマータイムについて、わざわざシーリアに伝えたりしなかったのだろう。

私はかなり年が上だったせいもあり、無下にもできず、見かねて何度か世話を焼くうちに懐かれてしまっていた。彼女の数少ない友人として付き合うなかで、今自分が言わなければ、このままずっと気がつかない可能性もあるのがわかっていた。仕方なく、誰もいない教室で眠る彼女に声をかけることにした。

「起きて、シーリア。お早う。学校からメールがきていたでしょ、先週。え、見なかった?サマータイムが終わったから、今日から時間が1時間ずれたんだよ」

もちろん、シーリアはサマータイムのことなんて知らなかった。彼女の凄いのは、一時間の時差を知ったところで大して気にしていなかったところだ。私が拙い英語で説明しようとしなければ、きっとその後も毎日、朝の教室で一時間分の睡眠を取り続けたに違いない。さらに、この機会にシーリアは大学からのメールにも、アカウントを作って参加するよう言われていた連絡網にも、一切アクセスしていなかったことが判明した。入学してから一月ちょっと、いったい何をやっていたのか。どうりで、大学のSNSアカウントで周知されていた宿題をやってきたためしがなかったわけだ。

しかし結局、彼女にはことの重大性が伝わったのかどうか。

「うーん。わかった」

そういってまた寝始めた。これほど信用できないOK(わかった)もないものだ。

シーリアの問題点は他にもいくつかあったが、その一つが「とにかく汚す」ということ。一度出したもの、使ったものを片付けることができない。常に汚しっぱなしの出しっぱなし。どうも、何かやったらすぐにそのまま忘れてしまうらしかった。そんな調子だから、1度だけ見たことのある彼女の部屋は、まさしく汚部屋やゴミ屋敷と言った類のものだった。ああいう居住空間が身近に実在するのだという事実が衝撃的で、しばらくの間、ゴミのうえに眠るシーリアの姿が頭から離れなかった。それでも、ここがスコットランドでよかったと、心から思ったものだ。湿気のある日本やアジアだったら、間違いなくもっと恐ろしいものを見ていただろうから。

汚すのがプライベートな場所だけであればまだ良いのだが、場所は多くの学生が集う構内のフラット。実際に同じキッチンを七~八人の留学生がシェアしていて、ほとんど出没しない者もいる一方、シーリアは食べるのが大好きな中国人だったから、毎日フル活用し、必然的にそこでも甚大な被害が発生していた。包丁、鍋、まな板、皿、箸、果ては食材に至るまで、彼女が使ったものすべてが使用済みのまま放置された。どんなにきつく言われても、持ち物をぞんざいに端に寄せられても、彼女は平気でまたそれを使って料理をするのだった。

ある時、シーリアの悪癖に、ついにロシア人男子学生の通称KGBがブチギレた。

「全部捨ててやる」

と言って、ゴミ袋に彼女の出しっぱなしの調理道具や食材を片っ端から放り込み始めた。

その場に居合わせたアフリカ人の女子学生たちも

「そうよ。やっちゃえ、やっちゃえ!」

と無責任に煽り立てる。こちらからすると彼女らの汚しようも相当のものだが、料理自体をほとんどしないぶん、それほど目立たない。母国から持ち帰ってきた香辛料を肉にすり込んでフラット中に異臭を蔓延させるとき以外、シーリアの敵ではなかった。

私は流石にいきなり全部捨てるのはと思い、

「まぁまぁ、気持ちはわかるけどさ、一応、彼女にもチャンスをあげたら?」

と言ったものの、

「十分だろ。十分言ってきたじゃないか。モエも友達なら、あいつにちゃんと言えよ!」

と、止まらない。もちろん、私も何度となく言い聞かせてはみたものの、ほとんど病的な散らかしようとちっとも響かない態度に、すでに更生をあきらめていた。見ないふりをするか、ひどくなったらこっちで適当に片づける。シーリアの異常性はともかく、日本人としては定期的に掃除せずにいられないくらいには、実のところみんなが全体的に汚していたのだった。

このときは最終的に、「これからは片付ける」と約束させ、一応KGBも捨てるのを思いとどまった。しかし、いうまでもなく、これまで培ってきたものが簡単に治るはずがない。

後日、シーリアが

「私のお鍋とお皿がないの。知らない?見なかった?」

と聞きにきたが、「きっと捨てられたんだよ」とは言えないものの、まず間違いなく屋外ゴミコンテナの中だろうと思った。その日の朝、キッチンの扉を開けた瞬間に、シーリアが散らかした食パンに手を伸ばす野生のリスと目が合った私は、正直に言って、KGBの気持ちがわからないではなかった。

そんなサクラが、彼女の誕生日にディナーを作って、私ともう一人の日本人を招待してくれたことがあった。

「中国ではね、誕生日の人がみんなをおもてなしするんだ」

そう言って、料理もケーキも自分で用意してくれた。私たちは手ぶらでただ料理を食べてくれたら良いという。心意気は素晴らしいし、気持ちは有難い。しかし、私たちは彼女の作り出した惨状を日々片付け、その衛生観念に大いに疑問を抱いていたので、「シーリアの手料理」というものに恐れおののいた。誕生日会は良いけれど、正直、料理は遠慮したい。でも、

「私の友達って少ないから、二人に頑張って作るね」

と言われると、食べたくないなんて言えなかった。

週末だったので、「最悪お腹を壊しても明日は寝ていられる」という決死の覚悟をして、私たちはお誕生日会に臨んだ。

誕生日会の料理の半分くらいが調理済みを買ってきて温めたものであったのは、その晩、私たちを最も喜ばせたことだったかもしれない。出来合いのものは値段も高くてあまり自分で買う機会がなかったので、その点でも嬉しかった。シーリアが作ったものも含めると、なかなか豪勢な食卓だった。さりげなくテイクアウトの惣菜を中心に食べながらも、作ってくれたものを全く食べないわけにもいかず、勧められるままに少しずつ箸をつけた。シーリア作の中華料理は意外にも本格的で味は美味しかったが、後にも先にもこの時ほど、食事は残すのが礼儀、という中国文化を有難く思ったことはなかった。

「用意をしてもらったから、後片付けは私たちがやるね」、という名目でキッチンも綺麗にし、楽しく会を終えた、翌日。私たちは仲良くお腹を下したのだった。人より丈夫なお腹をしていると自負している不肖わたくし。人生で、食べ物に当たったのはこの時を含めて二度しかない。

二人して、「料理じゃなくて、お皿とかがすでにダメだったんじゃないか」などと分析しながら、しかしそれほどひどい状態にはならなかったので、ひとまずよかったということになった。

シーリアとは、その後しばらくして、彼女が私から無断で借りた調味料をキッチンにぶちまけたまま放置する、という事件があって以来、さすがに頭にきて関わるのが嫌になってしまった。無駄なストレスを抱えずに学業に専念したいという気持ちもあって、何となく彼女を避けるようになってからは、不器用な彼女のこと。ほとんど会話もないまま、あっという間に疎遠になってしまった。

ところが、シーリアの帰国する少し前。彼女が私の部屋まできて、

「これ、おばさんが、こっちで大切な友達ができたらあげなさいって言ってたから」

と言って、紙箱包まれた文房具セットをくれた。白地に青の模様の入った、陶器の文房具が並んでいた。

その瞬間、私はなんだか息苦しくなって、あえぐように「ありがとう」と言った。随分年下のシーリアに、大人気なく冷淡な態度をとったこともあったのに。彼女はずっと友達だと思ってくれていたのだと思うと、胸の詰まるような気持ちがした。

お礼を言って別れを惜しんだ。しばらくしてからふと、サクラが、大学教授の両親が忙しかったので叔母が全ての面倒を見てくれた、と言っていたのを思い出した。そして、「本当は歴史が好きなんだけど、両親が望むので経済系の学部に行って銀行に就職するのが目標だ」と言っていたことも。それから、「一人っ子政策で自分には兄弟がいないけれど、自分達の世代は二人まで子供が持てるから、寂しい思いをさせずにすむ」とも。

またその時に、そうか、これから中国の〝一人っ子〟たちは、結婚して、夫婦で二組の両親の面倒を見ながら、二人の子育てをするのか。と思ったことも。問題の多い子ではあったけれど、シーリアの未来が明るいものであるように、そう願わずにはいられなかった。

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