蒸し暑くなってくると、食べたくなる料理というのがある。
ある年が明けてすぐのセビリアを訪れるまで、私にとってはガスパチョが、そんな料理の一つだった。その旅でサルモレッホと出会うまでは。
ガスパチョというのは、トマト、オリーブオイル、塩、ニンニク、ビネガーに、時には玉ねぎやきゅうりなどの夏野菜を加えてミキサーで攪拌したもの。具材は細かく切るだけの場合もある。冷たいまま食べるスープで、夏を乗り切るスペイン料理として有名だ。ガツンと冷たく、ピリッとした酸味が喉や胃を乱暴に冷やしてくれる感覚が、暑さに茹った身体にはたまらない美味しさ。
夏バテにもよく効くそうだ。もっとも、繊細な胃というものを持ち合わせたことのない身からすると、ますますの食欲増進を招くということになる。まったく困ったものだ。
スペイン南部を訪ねたからには、是非食べておきたい庶民の味だが、しかし、訪れたのは一月のはじめだったから、この夏の味覚を楽しむのにはいささか肌寒い。個人的には暑いのが苦手で寒さに比較的強い方ではあるが、それにしてもお腹が冷えそうな組み合わせだ。
おとなしく煮込みかパエリアでも食べようか。冬のスペインと言えばカルソッツ(長ネギを炭火で真っ黒に焼き、焦げた部分を剥いて中身をソースにつけて食べる、カタルーニャの郷土料理)だけれど、残念ながらここは南スペイン。この地で食べたいのは、やっぱりひんやりした冷製スープ…
ここまで来たからにはなぁ
と思いながら、スペインらしい晴天の中をてくてく歩く。
バスターミナルからホテルのある市街地に入る手前の右手に、黄金の塔の姿が見える。十三世紀頃の要塞の一部で、当時は全面タイル張りで金色に光り輝いていたことが名前の由来だそうだ。何度か取り壊しの危機にあいながら、市民や王様の反対で保たれてきた、セビリアのランドマークタワーである。現在は海洋博物館として、観光客にも解放されている。背が低いわりに目立つので、街歩きの際には役に立つ。
数日しか滞在できない都市では、多少値が張っても、なるべく中心部の、観光に便利な場所に宿をとることにしている。見たい場所がたくさんある場合は特にそうだ。この時は、裏がもう大聖堂という立地のホテルに泊まっていた。場所柄かそれ自体が歴史的な価値のありそうな建物で、縦に長かった。エレベーターがなく、フロントの前から四角いらせん階段が伸びていた。三階の部屋までスーツケースを持ってえっちらおっちら上がるのは多少骨が折れたが、壁の真っ青なタイルが柔らかなオレンジ色の間接照明に照らされて趣があった。室内もきれいに掃除されて過ごしやすかった。
一人で泊まるというのはどこでもやはり割高で、値段を抑えると質もそれなりのところが多い。しかしセビリアは、比較的綺麗で居心地の良さそうな宿の選択肢がいくつもあって、観光都市としての層の厚さを感じさせた。
この街はまた、必見の素晴らしい建造物の多くが、徒歩でアクセス可能なほど密集しているのも嬉しいところだ。街歩きを楽しみながら、所々で歴史的なスポットに出くわす旅ができる。ヤシのような南国風の街路樹と、オレンジの木がそこら中にあり、落ちた実からさわやかな香りが漂う。日本人の想像するスペインらしさが感じられる土地だと思う。ただ残念なことに、街路樹のオレンジは食用ではない。あんなに良い香りなのに、非常にいらしい。
世界第3位の規模を誇る豪華絢爛な大聖堂には、コロンブスの棺。かつてのタバコ工場であったセビリヤ大学はオペラ「カルメン」の幕が上がる場所。その先を行くとベンチや橋の手すりまで一面タイル張りで、スペイン各地の特色を伝える圧巻のスペイン広場があり、映画のロケ地としても有名だ。
見たいものがたくさんあって、ついつい食べるのも忘れて観光してしまう。ジェラート片手にバルを素通り。これは由々しき自体。夜にはワインをお供にフラメンコが待っている。でもその前に、腹ごしらえをしなければ。
そんなお腹の欲求に負けてふらりと入ったのは、大聖堂の脇から少し小道に入ったあたり、バルの連なりの中の一軒。女性客の多そうな、カラフルな店だった。こぢんまりとした店内と、店先にも可愛いテーブルがいくつか。先客が二組いて、立地のせいか人気店なのか、午後四時頃のアイドルタイムでもなかなかの賑わいをみせていた。
歩き回って喉も乾いている。そうか、ここが頼み時か、とばかりに、若い女性の店員さんに注文を試みた。
「ガスパチョ、クダサイ!」
「ガスパチョはないですね、サルモレッホしか」
「サル…あ、あの、ガスパ…」
「ないね。サルモレッホで良いでしょ、美味しいよ」
何だろう。若いのにこの、田舎のおばちゃんのような押しの強さは。
ただ無愛想というわけではなく、ラフでフレンドリーな感じは意外に好印象。お勧めというなら、頼んでみても良いかもしれない。
「サルモレッホって、どういうやつでしょう?」
と一応聞くと、
「ガスパチョと似てるけど、もっとクリーミー。パンが入ってるのよ」
とのこと。
むむ。パンとな。
聞いたことのないパン料理というところにセンサーが反応する。イタリアやスペインで食べられてきた、日本人では思いつかない、年季の入った家庭的なパン料理は、旅の楽しみの一つだ。
欧州のパンは日本のように甘く柔らかくなく、特にもともと豊かでなかった地域では、小麦と塩と水だけで作られているものも多い。すると、パンは一日も置けばカチカチの状態になってしまう。どうにかしてそれを食べるために、色々な食べ方や調理に利用する方法が発達してきた。知れば知るほど、日本人にとっての米と同じ、主食たることがよくわかる。イタリアのパン粉のパスタやパン粥など、想像を超える味わい深さだ。
炭水化物をこよなく愛する者としても、パン料理には並々ならぬ関心のある私。
「ぜひ、それを」
乾いた喉をティント•ディ•ベラーノ(赤ワインのレモネード割)で潤していると、すぐにタパス用の小さめの皿が出てきた。
マットなオレンジ色に輝くサルモレッホとの初対面だった。
輝いている…!
輝くというのは決して比喩ではない。なめらかなスープに乗った生ハムの切れ端から、最後に垂らされたオリーブオイルがきらりと光るところまで、無造作なさまがまるで計算しつくされたかのように美しかった。そして、異彩を放つトロッとしたスープをひとすくい、口に入れた瞬間から、私はもうこの悪魔のような液体の虜になってしまった。
ガスパチョの酸味やスッキリした味わいを残しつつ、パンの滋味が野菜の甘みを引き立てて優しい味を作り出す。さらに、ニンニクの香りが後を引き、上に散らされた、玉ねぎのピクルスと少しかための生ハムがまた良いアクセントになっていた。
あっという間に空になってしまったお皿が悲しくて、おすすめ料理を追加注文。出てきたのはレバーの煮込みのようなものと、魚介のパエリアだった。こちらは正直なところ、水っぽくてあまり美味しくなかった。それでも、あのサルモレッホと出会えただけで満足だった。幸せに満ちたお腹で店を後にした。
これから色々なところで美味しいサルモレッホを食べ比べてみよう。
そんなワクワクした気持ちは、しかしこの時は不完全燃焼のままに旅を終えることとなった。というのも、この後の旅程ではガスパチョはあれど、サルモレッホに出会うことが一切なかったのだ。
ない、ない、どこにもない。スペイン名物の集まった市場にも置いていない。
調べてみると、サルモレッホはアンダルシアのコルドバ発祥のスープで、スペイン全土にあるものではなかった。ポルトガルの宿で、私は身悶えした。まさにアンダルシアを周遊する旅の中で、グラナダにも、マラガにも、セビリヤにも行った。コルドバといえば、そのどの都市からもバスや電車で1時間半ほどの距離だ。歴史もあるし、たまたまルートから外したけれど、行ってみても良いなぁと思っていた街だった。
何故ちらっとでもそこに寄らなかったのか!
まさに心残り。しかしそのおかげか、再び訪れた南スペインではサルモレッホとみると必ず注文するようになった。もちろんどれも美味しいが、最初に食べたあの味に勝るものには出会えていない。印象が強すぎたので、まぁそれは仕方ない。日本のスペインバルでは個人的にまだ見たことがないけれど、作ろうとすれば作れるような気もするから、カチカチのパンに出会ったら、いつか自分で作ってみても良いかもしれない。
考えただけでまた食べたくなってきた。
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