この街で泊まったB&Bは、実に個性的だった。
古い石造りの家屋内部は綺麗にリノベーションされていて、明るくポップな家具が配置され、清潔感もある。これだけ書くと、申し分のないこじゃれた宿のようで、もちろんその通りなのだけれど、問題は室内がややあけすけなところにあった。
まず、部屋の中はコンパクトな造りになっており、シングルベッド2台が置かれた寝室と、トイレとシャワールームが並んだ洗面所に区切られていた。そしてこの区切りの壁が、透明だった。
透明ということは、つまり丸見えということ。
こちらに向かって用を足している姿も、シャワーで身体を洗っているところも。頭を置くベッドの上部が壁側だったので、ゴロンとうつ伏せの状態でふとした瞬間に視線を上げると、かなりの至近距離で無防備な相手と目が合ったりする。
ついでに言えば、区切りは本当にただの区切りで、出入り口にドアなどはないので、つまり音もわりと鮮明に聞こえた。
肉親でなければ相当気まずかったろうと思うけれど、気になるのは人の目だけではなかった。この部屋、何を隠そう、トイレの正面に姿見が配置されていたのだ。もはや何も隠れない。というか隠せない。
(全裸を)人に見られ、(下半身裸の)自分を見つめ…。
これが他の土地なら、「変わってるね」ですむ話だ。ところが、ここは聖地。長い巡礼路を歩き終えた人々が辿り着き、羽を休める場所。
そう考えると、この内装は非常に意味深にも思える。
すなわち、巡礼の旅を終える頃には、人は自分のあるがままを他人に見せることに抵抗を感じなくなるのだろうか、という疑問がわいてくるわけだ。「自分自身をもあるがままに受け入れる境地」に至るのかもしれない、と。
このスケスケの壁と便器の前に鎮座する鏡が巡礼者の練度を測る物差しだとしたら、興味本位で一泊だけ立ち寄った我々にその奥深さが理解できないのは当然のことと言えるだろう…
宿の謎はなかなかに悩ましいのだった。
–
半地下にある食堂では、生絞りオレンジジュースなどの簡素ながら丁寧な朝食をとることができた。
私たちの前に中年男性の二人組がおり、後からもう一組、老年に差し掛かろうかという夫婦が入ってきた。この夫婦は二人そろって大柄で、半ズボンから出た脚は細く筋張っていた。ご主人の方はいかにも巡礼者らしく、髪は長めで、モジャモジャの髭との境界線がわからないくらいだった。
私の顎くらいまである頑丈そうな杖を持った彼らは、生オレンジジュースを飲み、チーズとパンを食べると、おもむろにシンプルだが大型の水筒をとりだした。そしてテーブルの中央に据えられたエスプレッソマシンの下へその大きな水筒の口を何とか差し入れ、カプチーノのボタンを押した。何度も何度も押すうちに、透明な水筒の中身が少しずつ増えていき、やがて7分目ほどまで溜まると、満足したのか席を立って食堂を出て行った。
15分くらいは押し続けていたと思う。その間、私たちはマシンで暖かい飲み物を出すことができなかったけれど、だからどうということはなかった。どこか、巡礼者ファースト、みたいな気持ちがあったようにも思う。
「体が大きいし、あの感じはオランダ人かな?」「オーストリアかもね」などと言い合った。
朝食を終えると、さっそく市場と大聖堂を見学しに行くことにした。
外は朝から冷たい雨が降っていて、路面の石は雨をはじいて小さな川を作っていた。軽くて歩きやすいスニーカーは、こんな時には一気に水を吸ってあっという間に足を重くする。かといって天気に合わせて靴を何足も持つわけにいかないし、重くてかたい靴は長く履いていられない。
昔、祖母にもらったフランスメーカーのシューズは、持ってみると重いのだけれど、履くと馴染んで心地良く、どこへでも、どこまででも歩いて行けた。そしてどんなに雨が降っていても、中まで浸みてくることがなかった。何年か履いて、あまりにも薄汚れてきたので捨ててしまったが、今にして思えば、もっと擦り切れるまで履きつぶすべきだった。あんな靴はなかなかない。ましてや、普段自分で買うような価格帯では、到底出会わないだろうと思う。
ちなみに、この日私が履いていたのはスポーツショップで5000円で買ったナイキのランニングシューズ。歩くたびにジュクジュクと靴から水が浸みだすのも時間の問題だった。
私たちは足早に、しかし興味深く街中を進んだ。昨夜は閉まっていた店も開いていたので、時には立ち止まって中を覗いてみたりした。
パン屋のショーウィンドウにはいくつかのパンと、片手を広げたくらいの平たいケーキが決まっておいてあり、このケーキには粉砂糖で縁取られた十字架が浮かんでいた。
タルタ・デ・サンディアゴ(サンディアゴケーキ)。アーモンドプードルと砂糖と卵で作られた伝統菓子だ。よく言えば素朴で、正直なところ、名物に旨い物なしを体現するようなケーキだが、これにも巡礼を終えなければわからない奥深さがあるのかもしれない。私たちにとっては、B&Bの朝食で欠片を味見するので十分だった。
装飾品や何に使うのかわからないようなものが雑多に置いてある店などを見ているうちに、昨日前を通るだけだった アバストス 市場までやってきた。
雨足は強くなってきていたが、旧市街にある市場は盛況で、レストラン以外の生鮮食品を売る店はほぼすべてが店を開けていた。中央の祭壇のような建物から左右に平屋が広がり、この石造りの建築物自体が大分古い歴史を感じさせた。
肉やチーズを売る店、野菜を売る店、そして海産物を扱う店と、エリアが分かれている。街の規模から考えると大きな食品市場だと思う。
チーズ売り場には、よくみる円形の他に、スライムのような、ハーシーズのキスチョコのような形のものが必ずあった。といっても大きさは10倍以上で、片手に持つとずっしり重い。
野菜で目を引いたのは、まだらなスイカのようなカラーの、何とも言えない形状をした瓜っぽいもの。形だけだと、7つの玉を集めて龍を呼び出すアニメにでてくる、ピンクの魔人に似ている。おそらくかぼちゃの一種だろうと思うのだが、今だにあれがなんだったのか、わからない。
街中で見た、呪術具や瓶が並ぶショーウィンドウの一角にも、この宇宙人のようなかぼちゃ(仮)が置いてあった。不可思議な雰囲気を演出するための飾りだったのか、それともかぼちゃ(仮)自体が怪しげな術を行うための道具の一つなのかは、これまた謎である。
なにはともあれ、野菜売り場に置いてあるということは、この辺の人々は間違いなくこれを食すのだろう。どうやって食べるのか、興味はつきない。
そうこうするうちにシーフードのエリアまでやってきた。
旅行の時には必ずその土地の市場を訪れる。国によって地域によって、驚くほど様々なものがあふれていて、中には日本ではお目にかかれないようなものも多い。しかし、日本の市場が世界の何処をも圧倒するものがある。何を隠そう、海産物だ。世界のどこより種類が豊富で新鮮なのが、日本の魚市場だと思う。どれだけ海に近く、シーフードが有名な場所であろうとも。
しかし、このアバストス市場では、少しばかりこの自信が揺らいだ。もちろん、全体としては規模も種類も築地や豊洲の比ではないのだけれど、こと「貝」に限って言えば、日本に勝るとも劣らない品揃えだった。それに寒いせいもあってか、貝たちが心なしかキュッとして新鮮に見える。
見たこともないようなものも、砕いた氷の上にどっさりと乗っていた。代表格が、「ペルセベ」。日本でいう「亀の手」だ。まさに亀の手のような見た目は若干グロテスクだが、実は濃厚でとても美味しいとか。日本では珍味だけれど、スペインでは高級食材で通っている。
他にも、バルでお馴染みのマテ貝が10~20匹くらいまとめて括られているのや、ハマグリに似た二枚貝がキロ単位で網にまとめられているもの、小さめの巻貝、昨夜食べたムール貝もあれば、赤貝を小さくしたようなもの、大きなホタテ貝、などなど…。
干し鱈や切り身、イカ、タコ、エビに青魚も売っているけれど、とにかく貝、貝、貝。貝がこんなに幅を利かせている市場というのも珍しい。ここでは本当に色々な貝を食べることができるようだ。
巡礼のシンボルがホタテ貝になったのも、「昔の巡礼者がサンティアゴ・ディ・コンポステーラへたどり着き、ホタテ貝を食べて、殻を持ち帰ったから」なんていう話が残っているくらいだから、昔からよくとれたのだろう。
後から知ったのだけれど、この市場の中には買った魚介類を持っていくと5€のサービス料で調理してその場で食べさせてくれる場所があるらしい。立ち寄ったのは午前中の比較的早い時間で、まだ飲食店のエリアは店が開いていなかったので、気付きもしなかった。
この後、私たちは美味しいシーフードが食べられると評判のお店でランチを取ったけれど、もう一度行けるのなら、迷わず市場で何か食べる方を選ぶ。
レストランも雰囲気や接客は良かったし、出てきた魚介は新鮮で美味しかった。しかしまず、メニューを開いて出てきたのが“sashimi”だの“sugatazukuri”だのというところで、「あれ、来るところ間違えたかも」という思いに駆られ、お任せで出してもらったなかでも真っ先にそれらがサーブされた時点で、観光客が行くにはいささか場違いだったと気づいてしまった。まして日本人であるからには。
あそこはきっと、地元のフーディーがちょっと前衛的なスパイスの効いた、新鮮な食材と料理を楽しむために訪れる場所だったのだ。
ランチとしては値段もそれなりにしたけれど、クオリティは高かったと思う。市場で見たような貝もいくつか出してくれて、ぷりぷりで濃厚な味はさすが。特にそれを蒸してガリシア風のパプリカソースをかけたようなのが美味しかった。
ここで秀逸だったのは、最後に頼んだデザート。
チョコレートのムースにミルクチョコとヘーゼルナッツのアイス、ブラウニーにジャンドゥーヤのチョコレート尽くしで、これがもう何とも言えない。スペインはナッツ類も豊富に取れるので、色んなお菓子にふんだんに使われている。美しく盛り付けられてきたので、崩さないよう少しずつ食べていたら、ウェイターがやってきて、
「何やってるの。こうするんだよ!」
といって土手からケーキ部分を落とし、あっという間に一緒くたに混ぜてしまった。あまりの早業に笑いがでたが、食べてみるとこれがまた何故か繊細で美味しい。
本当に良い店はデザートまで手を抜かないから、デザートが美味しい店にはずれはない。ということで、このレストランも良い店であったのには間違いないと思う。
それでも、市場に積まれた新鮮な貝たちがチラチラと脳裏をよぎる。
今度行った時には、必ず、市場でペルセベを買ってその場で食べる。そう心に誓ったのだった。
–
ちなみに、大聖堂には行ってみたものの、内部は足場を組んでの大規模修復中。巡礼者のためのミサも一時的に他の場所で行われ、例の香炉も使われないという。修復が終わったばかりの「栄光の門」とやらを探してしばらくウロウロしてみたものの、見つからず。門というからには出入り口付近にあるのかと思っていたが、どうやら予約がなければ入れないような奥深くに隠されているらしい。ぽっと出の私たちではたどり着けないわけである。
代わりに、すぐそばにあった サン・マルティン・ピナリオ修道院 へ入って雨宿りしながら過ごしたのだが、 こちらは時間つぶしというにはもったいないほど素晴らしかったので、機会があれば是非訪れてみてほしい。 端っこの見過ごしてしまいそうな小さな入り口から入るようになっており、入場料も3€ほどと安く、あまり人もいないのでゆっくり見ることができる。特に聖歌隊席に掘られた聖人たちは圧巻だ。
サンティアゴ・デ・コンポステーラでは特にお土産というほどのものは買わなかったけれど、一つだけ、面白いものを見つけた。大聖堂の売店の隅に並んだ、聖人たちのメダイだ。
何が面白いと言って、眺めていると神社のお守りのような感じがして、どうも親近感がわいてくるところだ。聖人やそれぞれのアトリビュート(持ち物)についての知識がなくとも、描かれたイラストでどんな聖人か、何の守護聖人なのかがうっすらと想像できる。
「聖ヤコブ(サンティアゴ)のための良き地」あるいは「聖ヤコブの星の原」、「聖ヤコブの墓場」という名のこの街には、しかし、名を冠する聖ヤコブのみならず、多くの聖人の気配がする。星の数ほどいる巡礼者たちのそれぞれが、ここでその信仰の在処を探すのだろう。
「せっかくだから旅行守りを」と思って探してみて、そのあまりのわかりやすさにニヤニヤしてしまった。小さくて安価で、自分へのちょっとした記念にぴったりだ。巡礼はしていないけれども。
キリスト教や聖人についての知識なくフィーリングで買ってみて、あとからその聖人について調べてみるのも面白い。私は旅人の守護聖人、聖クリストファーのメダイを買い、宿へ戻ってから調べてみたが、彼がなぜ幼児を肩に乗せているのかなど、興味深く逸話を知ることができた。
さて、こうしてみると、自分がいかに行き当たりばったりに団子ばかり追い求めているかがよくわかる。
この地を訪れたことで、はからずもキリスト教の三大巡礼地を全て観ることになったけれど、個人的にはサンティアゴ・デ・コンポステーラは比較的おちついていて、ゆっくりできるところだった。
巡礼の道を歩くのがいつになるかはわからないが、ここにはまた近いうちに来れたら良いなと思う。
今度は、市場で亀の手を食べに。
コメント